印象派を浴びる(2)〜創り、続けること


絵を浴びながら、それを描いた人のことや軌跡を空想したけれど、一呼吸おいててからもいろいろなことを類推するきっかけになってくれています。

印象派というイノベーション

イノベーションというのは、何かを発明だけじゃなくて普及しなくちゃダメ、という話を以前聞いたことがある。まぁすごいものなら普及は自然にするのだろうと思うので、そうじゃないレベルでイノベーションだ〜と叫んでいるものが多い…ということの裏返しなのかなとも思ってみたりもするけれど、確かにひっそりとしていては世の中への影響は限りなく小さくなってしまう。会社の中の会話では普及=ビジネスにならなくちゃ!というおまけまで、もれなく付いてくる。まぁ、それはそれとして。一つの美術館でもかなり満腹気味なのに、三つを回って気持ちまで一杯になりながら「印象派というのはイノベーションなんじゃないんだろうか」と思ったわけです。


1900年のパリ万博のために建てられたという、グラン・パレとプチ・パレ。今でも使われているのだけど、プチ・パレは当時出店されていた物品も展示されてました。この中に、肖像画がある。よくはわからないのだけど、その昔(少なくとも印象派のころより以前は)絵画の需要のある割合はこの肖像画によって成り立っていたんだろうなぁ。19世紀末コダック社が誕生しその市場は揺れ始めていたのだろう。そんな時代に、今印象派と呼ばれる彼ら(と同系と目される画家たち)は人物以外のものを描き始めていたということなのだろう。みる前に予備知識は入れずにとにかく浴びようと思って出掛けたので、帰ってから調べてみるとそういうことのようだった。生前は評価を得られぬままに終えた者もいますけど、100年経っても自分も含めて人を集め続ける力を持っているとういのは、やはりひとつのイノベーションなんだろうと思うのです。企業がビジネスとできるレベルかどうかは疑問ですけどね。。。(^_^;)

外からうちへ回帰して深まる創造性

堀文子さんという御歳90歳の日本画家のことをたまたま知った。その力強い絵は、自宅の庭の花や木、顕微鏡でのぞいたミジンコなど。若い頃は秘境や僻地を回っていろいろなものを描いていたそうだが、病気を患ったこともあり今は自宅で制作を続けられている。。。数十年分のMonetの絵を続けてみているうちに、ふとそんなことを思い出した。いろいろな外的な刺激との交わりによる創造から、定点観測的な志向への変遷。健康上の理由ということも、加齢と伴に加わってくるのだろうけれど、最後は対象を借りて自分のうちに向かって深く降りていくようにみえる。例えば対象としては同じ物を描き続けながら、まるで武術の基礎の型をひたすら繰り返して意識せずに身につけるような。自分とのやりとりをどんどん深めながらの表現活動というか。よくわからないのですが、年齢や経験の量によって、創造性の形や志向が変わるのかもしれません。