空気SNS〜呼応する芸能@志の輔らくご21世紀は21日(明治安田生命ホール、新宿・東京)


何人ぐらい、当日券に並ばれたのだろう。後ろ半分の客席の通路は、一段に二人分ずつの座布団で、埋まってる。遅れてきたお客は、自分の指定席に座るのも、えっちらおっちら。舞台の上には、高座が作られ、座布団が一枚。その背後には「志の輔らくご」の文字が映し出されていて、客席もザワザワしかかるけれど、何かピンと張ったような気配が崩れない。志の輔さんが登場した時の拍手も、いつもより音が高くてテンポが速かったような気さえした。

事業仕分けみたいに、ものごとにはっきり白黒つけるって言うのは、日本人には向いていないんと思うんですよ〜。"Yes or No?"って聞かれたら、"う〜ん、、、or。”ってそういうもんでしょう、みなさん?

初めて聴くネタであっても、なくても、いつものように大笑い。志の輔さんからも、何かが発せられ、伝わってくるような感覚を味わいます。言葉を越えて、笑いを借りて、舞台にたった一人で座っている志の輔さんと、約400の客席との間で、それが呼応するのがみえます。


マクラに続いて、「ディア・ファミリー」。昭和のサラリーマン家庭@公団住宅を舞台に借りて、この曖昧な物言いの可笑しさと勤続三十年の記念品・鹿の剥製が暴き出す(!?)、普通の家族に潜む危うさと、やっぱり曖昧な素晴らしい解決策。いやぁ、そういえばもうすぐクリスマスなんですねぇ。志の輔さん、「歓喜の歌」だけじゃなくて、クリスマスっていう曖昧な年中行事にも日本人の特性をみて、噺にしたててるんでしょうね。
古典落語と言われるものは、どこまで実際の出来事を下敷きにしているのかは分かりませんけど、現代まで続いているっていうことは、題材こそ、その当時の人たちにすう〜っと受け入れられるものであったはずですが、中身は本質に迫る曖昧さが根底にあるような気がします。この、突然贈られた鹿に翻弄される噺にも、共通する匂いをぷんぷん感じます。終身雇用とか、団地とか、そういうものと世相はがらっと変わったとしても、話し続けられる可能性はあるように思います。


仲入りは、いつものように昼のラジオ版NHKニュースと"ひとりコラボマイム"の松元ヒロさん。相変わらず、動きがキレてます。もうひとつ面白いのは、ヒロさんのパフォーマンスに反応してる客席です。"な〜んだ。やっぱり大人だって、子供とおんなじように、下ネタ系、大好きなんじゃないのさ(笑)”なんてことが、近くの席のおば様が涙ぐみながらハンカチを握りしめながら笑い転げてるのをみるとわかっちゃいます。もちろん、自分も涙ぐまんばかりの状態なんですが。そんな一体感で、さらに盛り上がって、〆の一席は「帯久」でした。

10年前の第一回で、この噺をやったんです。最後の今日に、またこれをやろうと。

御店の日常や、大晦日の情景の中に入り込み、和泉屋の波乱万丈の十数年が綴られていきます。会場の空気は相変わらず、崩れることなく、一緒にそれを描いていくような。それを感じて、志の輔さんがまた返す…そんなやりとりが、大岡裁きのシーンまで一気に続きました。古典ものが苦手な家人も、ずっと引き込まれ続けてたと終わってから言ってました。それにしても、和泉屋と帯屋。違う二人でもありながら、人間の両面を描いているように受け取ることもできる。なので、似ているようで、水戸黄門とは違うものに思えます。ある時はYesでまたある時はNo、紙一重でどちらにも行ったり来たりしながらが毎日なんだ…そんな噺なのかもしれないと、前回どこかで聴いた時には思わなかったことをこちらも感じる。落語が、白黒つけないが故にもつ奥深さ、なんでしょうねぇ。


2000年1月以来、10年間。ほぼ毎月ここで、月例の独演会。その会が今日で一区切り、最終回。この会はぼくにとって、初めて"落語"というものを体験した場でもあって、ここにつれて来たもらったことが、今につながっている源。でも今は、ブログにそのことを書くこともできるし、感謝のエアタグセカイカメラで置いてくることもできる。そうそう、twitterにもこの会が素晴らしかったという書き込みが、いくつものあがっていました。
それにしても、前に進み続ける人は、そのために継続してきたことに自分で区切りをつけ、変わることを自分に強い続ける人でもあるのだと、三三七拍子の後、客席に頭をさげたあとに「バイバイまたね!」とばかりに右手を挙げた志の輔さんに思わずにはいられません。
本当に、ありがとうございました。次の新しい会も、楽しみにしています。