時間が、はやく過ぎていくと、感じさせるもの

あぁ、休みも終わっちゃいました。歳をとると、一年が早く過ぎるように感じるようになるのはなぜか。三日に、落語で出掛けた以外は、近所に買い物に出掛けたぐらいで、久し振りにほとんどおこもり状態。貯めた本を読んだりしてたんですが、その中の一冊「動的平衡〜生命はなぜそこに宿るのか」に、それを説明する仮説として、こんな話がでてました。人間の身体は、新陳代謝を絶えずしてますよね。若いときの方が活発に、歳をとっていくと、それがだんだん、ゆっくりになっていく。一方で、人が時間を感じる体内時計は、この代謝の速度に従っている。つまり、老人は子供よりも、体内時計的には、時間をゆっくり感じるのだ、と。ところが、ここで厄介なのは、時間。これは、年齢に関係無く、同じ早さで過ぎていく。この二つのギャップが「2009年になって、そんなに経っていないつもりなのに、あぁ、もう五月になっちゃったよ」とかにつながってる、というんですね。


人間って、自分を取り巻いているいろんなもの、環境というか、そういうものと関わりながら、生きている。まぁ、そういうことを、自分も、少年から若者、そして青年から…となるにつれて、だんだんと強く、意識するようになってきたわけです。時間もそういうなかで、どんどん存在感を増してきました。仕事の納期もそうですけど、自分の残りの時間ということもありますし、ね。この、時間って、そのなんというか、実際には無いのにあるということにして、そう名前をつけたものの、ひとつなんだと思うんです。だって、そのほうが、都合がいいから。
「時間」って名前がついたものは、二種類あるんですね。時計で知ることができる、一定の早さで進んでいく"クロノス"。自分の感覚で、早くなったり遅くなったりする、"カイロス"。ギリシャ人って、すごいですね〜。子供は、自分を取り巻く世の中で取り扱われている"時間"とは、無関係に生きている。つまり、子供にとっての時間は、クロノスではなく、カイロス中心。だから、本人がそう思い続けたら、いくらでも続く…そういう言い方も、できるんじゃないかって思います。でも、大人になっても、クロノスとカイロスの両方と、うまくつき合ってる人、いますよね。


この本で、印象に残っていること、ほかにもあります。例えば、"食べ物を一日に60g食べて、10g排泄する。そうしたら、50gを体内に取り込んでいる"…という考えでは、生命というものは見えてきませんよ、とか。実際には、食べたものと同量かそれ以上の量の、消化酵素膵臓からでてきて、食べたものを分解する。つまり、実は全部で、120gぐらいのものが登場していて、10gというのは、その最後に残ったものだって。
頭でわかっているつもりでも、すぐに、ものごとの間に関係を描いてしまい、直感だ!なんて、やりがちだからなぁ、ぼくは。あはは。調査のデータとか、こっちとそっちの間に、何かの関係が潜んでいるはずだ…なんて見ちゃうものなぁ。あ、いま、仕事でそういうことを、してるんですよ、注意注意と。

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか