日本語変われば空気が変わる

自分のメモを見るとこんなことが並んでいる。

  • 最近読む本で印象に残っているものに”対談”ものが増えている
  • 休みの日に自分が出向く場所に若い男性が少ないのはなぜだろう
  • 日本では比較広告が好まれずイメージ広告が多いといわれるのはなぜだろう
  • ぶつかってもお互いに”無かったことのように”振る舞うのはなぜだろう

 「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))  「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)

いくつかはこの冷泉彰彦氏の「関係の空気・場の空気」を読んで氷解した(と思う)。それは「日本語」そのものの特徴と、その使われ方が変化していることから来る”空気”の変化(=閉塞感が増している)なのだと著者・冷泉氏はいう。数年前に読んだ、山本七平氏の「空気の研究」もかなり衝撃だったけれど、冷泉氏の著作は山本氏以降正面からこの”空気”を扱ったものかもしれない。そして、その発生原因を毎日当たり前に使っている「日本語」の特徴に”発見”している点が鋭い気がする。

男言葉とされたものを女性が使うことで、女性は変われたけど男性は閉塞感があるとか、最近の会話には「です、ます」と「である、だ」が混在し、リズムやスピード感を持っているとか。(思いきりはしょってます^_^;)後者については、そのような語法は上下関係があることを前提としているので対等な関係で会話が成立しないことが指摘されていて、管理職が「最近の若いやつは元気がない」なんていってても的外れかもしれない可能性もみえてくる。
また、省略語や隠語をつくり、それが何であるかを明示せずにイメージ化して大勢で(疑似)共有し形骸化しやすいなんて特徴も指摘されてる。”ホワイトカラー・エグゼプション”→”残業ゼロ政策”となって議論がかみ合わなくなりしぼんだのも多分それ。

それにしても、社外・歳の離れた・仕事の専門が違う・住んでる国が違う…などなどの友人がいるといないのとじゃ随分とみえるものが違うのだと今更ながらに思う。時間の使い方、もう少し考えねば!TVや新聞が同じことを異口同音に叫んでてなんだか変だゾ…なんて時はこの本読むとすっきりするかも。