順序は、意識されることで生まれるのかもしれない


あるブログの記事をプリントして(今さら)気がついたのだけど、ブログって新しい記事が常に先頭だ。というか、本来は順番なんてないものなのじゃないかと思うのだけど、プリントして紙の状態で手元にくるとそこに”無意識的”にどれが先でこっちが後なんてことを思い浮かべていることに気がついた。

本はその逆。著者が順番を考えて内容が並んでいる。読む方も普通は初めから順に読んでいく。でもネットで”読んで”いると、関連する項目のリンクに飛んだり、自分でわからないことを調べにいったりしているうちに順序はなくなっている。理由はいくつかあるのだろうけれど、対象に”量”を意識した時に(例えば何枚もの「紙」という物理的なものに対した時に)、こちらが”無意識的に”順序があるものとして”意識してしまう”のかもしれない。

先月読んだ「橋元淳一郎/時間はどこで生まれるのか」という本では、”過去から未来へ時間が流れる、という概念は近年人間が作り上だしたもので、自然はそのようになっているわけではない”といっていた。これには驚いた。そんなの当たり前のこと。。。と思っていたものなぁ。そうだとすれば、つまり動物にはそのような概念はない、ということでもあるのだろう。結局は生まれて死んでいくということを(例えぼんやりとであっても)意識することを、人はするが動物はしていないと言い換えられそうな気さえしてくる。

 

時間的な順序を見いだすことがない状態で周囲のものを見ることができたら、どうみえるのだろう。記憶を蓄え、それを誰かに伝えたり、次代に残したりということはできない!?。まぁ幸か不幸か、意識を持ってしまったので、この季節いろんなものを眺めるとそれだけで嬉しくなってしまう。花粉症が軽くなったこともあるけれど(苦笑)。

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)