自分への最終勧告のような。。。「ウェブ時代をゆく」


書いてあることが分からないわけじゃないけど、なかなか読み進めずもう一ヶ月たってしまった。先に進んではちょっと戻り、栞は挟んでいるのにたまたま開いたところからまた読んでしまう。ポストイットは増えていくのに、それだけじゃ読めていない気がして、また戻る。活字から"念"のような力を感じる気さえしちゃう。最後まで読み通したのに読み終えた気がせず、何となくすっきりしない。。。


「多くのものはそれまで場所と一緒が当たり前だった。でもネットが当たり前になって、分離できるものが増えた。それによって誰からみてもこれは"公"、こっちは"私"、というような区別ができないことが増えた」


自分の解釈だけど、こんな変化によってそれまでは考えなかったことを、考えるか考えないかでいろんな違いが出てきちゃう…ということなのだと思う。「公」的な部分は、"その場"のルールに沿っていればよかった部分といえるかもしれない。誰かが考えてくれた仕組みなりやり方に従えば結果は出る。でも生活の中でそれだけですむ部分はどんどん少なくなっているみたいだ(実際には更なるルールで縛る動きも多い気がするけど)。でも、"時間"の使い方は「私」的部分。自分の代わりに考えたり導いたりは誰もしてくれない。考えたり、判断しなくちゃいけない、というか、しなくてももちろんいいんだけど、それはそう判断した上でね。。。これが一番"腑に落ちた"勧告。


「おまえのいる部は、仕事楽しそうだね〜いいなぁ」
「うん、楽しいよ。だったらさ、移って来ない?」
「え?。。。おれは、いいよ(苦笑)」


ここ数年、何度となく社内で繰り返している会話。今楽しく仕事ができてる状態でいられるのは、大きな組織の中にいるから!?かもしれないし、こういう状態を好まない人もいるのも事実(仕事を楽しいものにするなんて…とか)。まぁだからこそ自分のいる場所もあるんだろう。自分がコントロールできるのは、人生を区切って、あるいは一日を区切って、何にどれだけ費やすかを(改めて)決めて、やってみて続けて、生きること。例えば会社という「公」的なところでする"仕事"であっても、「私」としての意志ややってたいことをどれだけ盛り込んだり重ねちゃって、というようなやり方もアリ。そんな中で、何を止めるか。何を目指すのか。何がやりたいか。「明日会社辞めたら、どうやって生きてゆくつもり?」この本の具体的な問いには、正直答えがみえてなくてまだ"腑に落ちない"。。。


生み出すこと。いろんな例を教えてくれているこのことを、生きていけるかどうかに繋がるかどうかは分からないけれど、消費するだけじゃなく、せめて続けてみたい。仕事でも、家族や友人との時間でも、例えこんなブログでも(^_^;)。。。でも、書くことと生み出すことは、同じじゃない気もするからそれだけじゃだめなのかもしれない。それを続けるために止めることは。。。自分の時間をなんとなく誰かにあげること、かな。仕事とプライベート、もうとっくに区別はできてませんもの(笑)。

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)