落語とバレエで感じた、個人と大組織の違い1


昨年末から魚の骨が引っ掛かったみたいに(。。。最近こういう表現は通じるのかな^_^;)なっている、「ウェブ時代をゆく」と「読みの整理学」。今月、落語(志の輔らくごin PARCO)と吉田都さんが踊ったバレエ(バーミンガム・ロイヤルバレエ団)を続けて観てから、何が引っ掛かっていたのかが自分なりに言葉になりかかっている気がするので、メモしておこうと思います。あ、落語もバレエも素人ですので、理解として"大外れ"があるかもしれませんが、どうぞその点はご容赦を。。。
会社の中にいながらだと、分かるようで実は分かっていない気がする、"けものみち"と"高く険しい道"の違い。どちらも厳しい道だけど、そのタイプがずいぶん違うんだということが、頭の中では分かっているつもりでも実はピンと来ていなかったんじゃないか。それが今までより少し、こういうことなのかも…と分かってきた気がするので。


  • 為すことの規模感

志の輔さんが定期的に独演会をされている新宿・安田生命ホールは342席、毎年一月に一ヶ月公演をしている渋谷・PARCO劇場は458席。ちなみに志の輔さんは昨年、半蔵門国立劇場(大劇場)1610席を一杯にした公演もされました。
吉田都さんが踊ったバーミンガム・ロイヤルバレエ「コッペリア」の会場・五反田ゆうぽうとは1663席(オーケストラピット使用時)。パリのオペラ座ガルニエ宮の席数は2167席(5層)、バスティーユが2703席(7層?)だそうです。イギリスのロイヤルオペラハウスも2174席(4層)。


ということで、一回あたりの公演の"規模感"を観客の数の違いだと考えてみると、施設の席数から両者の違いは4〜5倍ではないかと思います。バレエ団が一度に魅了することができるこの二千名ぐらいの観客数が「大組織ならではできる大きなこと」に相当するんじゃないかと無理やりこじつけています。
ただ公演をするためには、衣装や舞台美術、輸送などなどが落語に比べると張るかに大きな規模で動いているということも、大きなことをするということに付随するポイントなのかと思います。つまり観客の目に見える直接的な部分以外に、世の中のいろいろな部分に影響や関わりを持っている部分が多い、そして大きいということもありそうです。


  • 伝える方法(演者)〜組織と個人

バレエ団のダンサーは、"プリンシパル"と言われるごく限られた人たちを頂点に、"ソリスト"(ソロで踊る場面を任される人)、"コール・ド・バレエ(群舞)"と分かれているそうです。大規模と言われるボリショイ・バレエでダンサーの数は200名ぐらい、パリ・オペラ座バレエで150名ぐらい(「バレエエッセンス」より)。これを舞台や衣装、音楽などを初めとする様々なスタッフがサポートしています(人数こそ違うかもしれませんが落語も同じですよね)。ということで、バレエ団はまるで会社とそっくりに思えてきます。
落語も"真打ち"を筆頭に階層構造にはなっていますけれど、舞台の上では音楽もなく一人きりで話しきるところが最大の特徴ですよね。その言葉で、どれだけ観衆を別の世界に連れていけるかにかかっているわけです。独立してひとりでコンサルしてる方って、まさにこういうことをされてるんじゃないかと想像したわけです。


  • 言語化の必要度の大小〜内面と外の世界

言語化は自分で理解したり繰り返しできるようにするためのものと、誰かに伝えるための二つの面があると思います。バレエはセリフがありませんから(音楽や振りが言葉に代わるもの、という面を持っているとは思いますが)言葉は主に前者、あるいはメンバーなど組織内で交わされるものが中心なのだと思います。でもバレエ(踊り)は、表現ができればやれる部分があるのかな、と思います(想像ですが)。自分の肉体の動き・感覚を言葉にするのは恐らく並大抵のことじゃないでしょう。でもそのことが言語化できなくても、コントロールできるようになれば表現はできるのではないのだろうかと。ちょっと話はそれますけど、プロフェッショナル・仕事の流儀でみたイチローさんは、徹底的に感覚が働く→言語化→練習→…を繰り返している凄い人!という印象を持ちました。
一方落語は声、身体の限られた動きなど言葉以外のものも大事な要素はもちろんありますが、世の中を題材にその面白さや可笑しさ、悲しみなどの本質をとらえて言語化するのではないか、という気がします。で、その後の観客に伝えるための言葉の使い方が観客を引き込むための大事な要素。言葉とその使い方のリズムやテンポ、雰囲気の作り方で、無いものがみえるかどうかが決まっていくのだと思います。


落語のように、個人が外の誰かと何かを為すためには言葉無しには不可能でしょう。でも、バレエのような組織ではメンバー全てで作り出すものによって、必ずしも言葉によらなくてもそれ(に近いことが)ができるのかも。それは会社内では当たり前のように通じる"社内語"の存在に重なるんじゃないかなと思うわけです。そんなわけで、まるで会社にみえてきちゃうんです。
落語は自分一人です。でも対象にするのは観客が知っている世界。それを自分の切り取り方で観て、自分の言葉で組み立てる。古典と呼ばれるものであってもそれは同じのような気がしています。誰でも知っている世界のはずなんだけど、観客の中にはその世界を知らない人がいるかもしれません。なので反応を見ながらさらに別のいい方や言葉で補ったりする。そういう掛け合いによって世界を作り引っ張り込んでいく。昨秋、志の輔さんの国立劇場での独演会は、「24」仕立の落語がかけられました。名前ぐらいはぼくも聞いたことありますけどみたことも見ようとしたこともぜ〜んぜん無い。ところが、あぁそういうものなんだ!と分かった気になると同時に、そのネタで涙でるぐらい笑っちゃいました。知らない人にどういうものか伝えながら、笑うところまで持っていくってもの凄いことだとうなってしまいました。


  • 観客との関係〜即興的か事前設定的か

志の輔さんの今年のPARCOでの落語を二回観たんです。演目は一回につき3つ。このうち二つ(「意義なし!」と「歓喜の歌」)は同じでした。実をいうと、枕の話も。だからこそ感じられたんだと思いますが、ノリが違ってたんです。1月7日は正月休み明け初日の月曜日という状態。自分も含めて何だかリズムがまだ出来てない。そんな観客席の空気を多分反映して志の輔さんも影響を受けていたように思います。いえ、もちろんそこはプロですから十分満喫しました。でもね、観客の笑い声の大きさや入り込み度、それに連動して?枕の言葉の使い方や張りが違うように感じたんです。それはライブセッションのようなというか即興的なものなのだと思います。
バレエの場合は事前に演目が分かっています。しかもクラシックバレエの場合、そのストーリーも。なのでどういう場面が設定されているかとか、舞台美術や踊りでどんなことを表現しようとしているのかも、ある程度観客が事前に把握しているわけですね。その上で、さらにダンサーやバレエ団なりの解釈や表現をどう表していくのかが特徴でもあり魅力の大きな部分になっていく気がします。




…長々と書いてしまいましたが、結局落語もバレエも伝えたり表現しようとしていることの"核"って大きな違いがない気がしてきてます。それをどういうやり方でするかの違い、どちらのやり方が自分が好きかの違いじゃないかって。ということは、その「核(人生の最上位ニーズ、かな)」を自覚できたほうが(できないよりも)いいよなあ。自分がのめり込むぐらい好きなことが何だか言葉に出来ない状態の時は、そちらからも考える方法もあるかもってことも、頭の片隅に引っかけながらあがいてみようと思うのであります。