落語とバレエで感じた、個人と大組織の違い2


前のエントリーを書きながら、落語やバレエの側にあって個人や組織の方にあるのかどうかがすっきりしない点がひとつ残っていました。それはある"役柄"のことです。バレエで「キャラクター・ダンサー(キャラクテール)」と呼ばれるソリスト。派手な踊りの道化だったり、バレエ的な踊りをあまりしない人間ぽい感情表現を担った役だったり様々ですけど、一般的には個性的な役柄だとされています。実はこの役が、物語に現実味や厚みを与えたり、完成させる切り札のような気がしてます。


例えば「白鳥の湖」ならば、悪役:ロットバルトの存在感がもし弱ければ、その娘である黒鳥:オディールの強さにも影響しちゃって、全体が薄っぺらになっちゃう。王子様やお姫さまは、衣装も動きもある程度定型的になりますけど、ロットバルトは演出次第で衣装も踊りもグンと変わってくるそうです。「コッペリア」ならばちょっとマッドサイエンティストなコッペリウス博士かな。


志の輔さん作の「歓喜の歌」(2月からは映画もはじまりますね〜、のでストーリーは割愛しますが^_^;)の公民館の主任の部下:加藤君。主任とママさんコーラスの間の大きなギャップに、直接・間接に橋を架け、実は物語を進めていく上で大事な存在。"ご隠居さん"もこの役割をすることがあると思います。


卑近な例では、鳥の鍋に黒七味や柚子胡椒がもし無かったら、その鳥肉やスープがいかに素晴らしいものでも全体として完成はしないんじゃないかと(^_^;)ゞ…スミマセン、べたべたの例えで。


個人では、自分の中にこのキャラクターをひとり住まわせておくということになるんだと思いますが、さて組織の中でこの「キャラクテール」に相当するものってどんな人なんだろう? それは同質化されていない存在なんじゃないかって思うんです。もしかしたら疎まれているかもしれないし、主流には乗ってないことも多いかもしれない。でも、進化に変異が必要なように結果として新しいものに導く触媒みたいなものじゃないかって。
組織はある時点で内に向かった凝集力が発生するので、正常心を保つように仕向ける役が必要になる可能性が出てくると思うんです。それがないと、社内では何の欠陥もない計画もいざ外に向かって行動を起こしたらなんじゃこりゃ!?になっちゃったり(笑)。そんなわけで組織にはキャラクテールな存在が必要なんじゃないかと。もしかしたら自分が知らないだけでちゃんと居るのかもしれませんけれど。。。



落語やバレエから、勝手なことをあれこれ考えてみたんですが、両者が個人と組織に似ているとしたら、どちらも険しくて高いものが頂点。それを目指すならば、選ぶべき道の景色が違っているだけで、やはりどちらも自分で道を拓かなくちゃいけない"けものみち"な気がします。
じゃ頂点を目指さなけりゃそんな道を行かなくてもいいかっていうと、アウトソーシングできる仕事はどんどん流出してます。以前ならば総務とか人事がやっていた仕事のそれなりの部分はその代表だと思います。だから結局、組織でも個人であっても、自分なりのけものみちを見つけて歩かないと、決して安穏とはしていられない可能性が高まってる。あとは、それをするか、しないかの違いだけなのかも。。。しれません。あぁ、緊迫。