曲をシャッフルしながら考える、全体像の意味と描き方


ご多分に漏れず、のだめの正月再放送以来クラシックを時々聴くようになって、iTunesStore出ダウンロードしたり。はじめのうちはそのまま聞いてたんですが、少し曲が増えてくるとプレイリストで"クラシック"を作ってシャッフルで聞くように。と、家族から「シャッフルしないで〜!」とリクエストが。ふぅむ、シャッフルには好き嫌いがあるようです。


音楽を、作者(制作者)の意図した通りの流れで聴くか、意外性も含めて楽しむか。BGMのように音楽を流した状態で楽しむことが多い自分の場合、基本はシャッフルです。ポップス系が多いんですが、アルバムからある一曲が独立してシングルカットされたりもしますから、シャッフル向きなんだと思います。アルバム全体を通して聞いても、曲ごとに好き嫌いや、出来不出来みたいなものを感じちゃいますから、気に入ったものだけをセレクトして聞きたいという気持ちが出てくるのは自然なことなんじゃないかと思うんです。山下達郎の次に竹内まりあのこともあればkiroroが出てきたり。前後の"落差感"だったりテンポやリズムの違いで一枚のCDじゃ味わえない面白さが(偶然)味わえます。というか、そういうことに全く違和感を感じないんです。一方、クラシック(交響曲)は年月を経て生き残った実力者たちで、幾つかのパートに分かれているけれど全体で一つの曲、小説のようなものらしい。なるほど。シャッフルするとそういう全体感のようなものはみえなくなるかもなぁ。


全体感を意識して、それをパートの構成で表現している(と思われる)交響曲。アルバムを通してテーマを設定するものもあるけれど、例えばCMで使うための曲とアルバム用に作られた曲が混在しているのが珍しくないポップス(でも作者の"カラー"はどうやっても出てきますけどね)。人によって楽しむ嗜好の違いがあるのはもちろん、音楽の種類によって、シャッフルに近い遠いなんていうこともあるのかもしれません。


ブログははじめからシャッフルになってるようにみえますが(←自分のことか^_^;)、離れて眺めるとある程度集まったのジグソーパズルの塊のように、その人のカタチのようなものがみえてくるように思います。書いてる人にすれば自然な連なりだからなんでしょうね。全体感をあまり意識しないで(…もちろん、それをしっかり意識して書いている人もいますよね。アルファーブロガーなんてそうなんだと思います)、個別のエントリーを紡いでいくと結果として全体感(のようなもの)がぼんやりとみえてくる。全く知らない人のブログでも、何となくどんな人か…という想像が働くようになる(当たっているかどうかは別として^_^;)。


はじめから全体像を意識してそれを構成するパートを作り、繋いで、全体を表現するもの。ひょっとしたらとりとめの無い状態から抜けられないかもしれないけれど、感じたままに紡いだものを集めて少し離れて改めて自分でも全体像のようなものがみえてくるもの。唐突なんですが、最近の仕事は後者によってある程度全体像の候補を描いくということをした上で、その全体像を意識して改めてパートに当たる部分を描くという二段階でやっている気がします。つまり、ゴール(クリアすべき課題)がはっきり見えていない場合が増えたんじゃないか、と。
対照的に、最初からゴールがはっきりしてるのは、"ルール系"のお仕事。そこまでやる必要があるかとか、そういうことを抜きにしてとにかくやるのがルールだから!というパタンです。昔々は会社全体でルール系お仕事が今より少なかったと思うんですが、ずいぶん増えました。でも、なんだかそういうお仕事は、何かを新しく生み出すことは少ない気がします。"あるべき状態"にどれだけ近いかをチェックするのがメインですから。


後者がしっかり身についた人から見ると、前者はいかにも頼りなさ気なことでしょう(^_^;)。でも、実際に"本当のゴール"が見えにくい状況も増えている気がします。交響曲ののように、壮大な、でも身近に感じられるテーマやビジョンをはじめに掲げる(←例え途中で変わったとしても)ということは、実は思っているよりも大事なことなのかもしれません。。。あぁ、ブログのテーマも然り(-_-;)。