過ぎたることと過ぎざること


(漫画のキャラクターは)カッコよすぎると、ヒットしない。どこかに引っ掛かりが必要なんだ(石ノ森章太郎、漫画家)

うま過ぎると、食べ飽きるぞ(安藤宏基、日清食品社長)


あまり見ないTVだけど、たまたま見ていたら上の二つの言葉が妙に印象に残ったのだった。前者はBSの特集番組の中で仮面ライダーのキャラクターを考えている際に、かつて石ノ森氏が発したもの。後者は来週のカンブリア宮殿の予告。カップヌードルの新製品の評価場面での発言のようだった。どちらもロングセラーを目指すための"コツ"のようだ。なるほど、上手いこと言うもんだ。確かにそんな気がする。でも、なんでこの言葉がいいと思うんだろう…うぅうまく言葉にできない。。。と思いながら数日。だとすれば、Appleのモノたちはどうなんだ? あれらはどうみても"過ぎている"ように思えるぞ。


自分が気に入って選んで使うモノは、カッコよすぎるぐらいであってくれて困ることはないし、そうあって欲しい(誰から見てもそう見えるかどうかはもちろん別だけど)。自分が好きで食べるものがうま過ぎると、例えば食べ過ぎちゃって飽きることに通じるっていうはまだ分かる気はするけど、何か足りないなぁ。。。っと思ったら、次は他のメニューにしようと思いそうだし別の店に行くかもしれない。。この違いはなんだろう。とまた少し悩んでみる。


過ぎたものと過ぎざるものの違いは、例えば「選ぶ」というか、買う回数にあるのかもしれない。漫画は一冊買っても続編をまた買うかどうかは考える機会がやって来る。カップラーメンも一度食べておいしくても、次は別のものを買われちゃうかもしれない。使い切ると言うか味わう時間はとても短いし。だからホンの少し、もう一度選ばれるためにこれらの発言のような条件が合った方がいいのかもしれない。最も漫画のキャラクターは、人間味を感じられる方がいい、ということだったりするかも。逆にiPodは、選んで買ったら後は何度も使うわけだ。外出する時に持って行くか行かないかは、また選択だけれどもけれど。


マンガもカップラーメンも、自分(見る側、食べる側)にできることはそんなに多くないから…なんてことも影響するのかも。どちらも見た目に魅かれて手に持って重みを楽しんだり、撫でて感触を味わったりなんていう対象じゃないだろうし(何らかの思い出が加わると話は別だけど)。活性化する感覚の数や種類が少ないんじゃないか。


つまり、選ぶ頻度が多かったり、使われる感覚が少ない場合、ちょっとした"引っ掛かり"みたいなものがあった方が、受け手の気持ちにフックのような効果をもたらして"もう一度!"となるんじゃないだろうか。。。自分も誰かと会った時に"フック"をかけるために、完璧よりも少し何か足りない感覚を意識してみようかな。いやいや自分の場合、そんなことを考えるぐらいなら、もう少しあるべき姿を目指すべきかな(爆)。



さて、東京は早くも桜が満開とか。通勤時に見える多摩川沿いはまだそんな様子じゃないですが、目黒川沿いはすっかりそんな感じです。あるいてみると、確かに花は開いているんですけど、なんだか"気"のようなものを感じない木が多くてなんだか思わず拍子抜け。造花のような雰囲気…といったらいいすぎだけど、そんな感じなんですよ。例えば、写真を撮りたいという気があまり起きない。開花から満開までの時間が短かったことが影響してるんだろうか。でも、人はたくさん(もちろん、自分もその一人)。こちらは変わらない光景。過ぎたるぐらい素晴らしくても、まだそこまでの状態じゃなくても、人々は集まってくるわけですね。これは、桜以外に仲間と一緒の時間を楽しんだり…なんていうことがあるからなんでしょうねぇ(^_^)