違和感を受け入れ…られるか


茂木さんの「思考の補助線」を読んでいる最中。氏が熱く語っているままだと錯覚するような文体で、ページが進んでいく。その中の、周囲とのコミュニケーション次第で人は「同質化」もすれば「個性化」もする、故に偉才を放つ人間が生まれるには、それを認めるような周囲・社会が必要ではないか…というくだりを読んで、思ったことがあった。


最近、自分の愛用品に違和感を感じているのだ。毎日使っているpalm。そして、これがあるから使っているというアプリ(Mandal-Artという)が、珍しくバージョンアップ。このアプリ、スクエァな画面を縦横二本の線で3×3に区切って小さな正方形が9個並んでいるのが基本画面のシンプルなヤツで、バージョンアップもまたシンプル。新しい機能がドド〜ンと加わったわけでもなければ、インターフェースがガラっと目新しくなったわけでもない。何が変わったかといえば、使う時の"考え方"が変わって、それに伴い画面の構成が少々変更されたとでもいうようなものだ。感じているままに極論すると、前のバージョンは、少し先のことから現在を中心に考えたり変えたりその結果をアーカイブしたりがやりやすかった。今度はもっと先のことを考えて、それをいかにして"今"とシンクロさせるか、というものになった気がする。


まぁ、これについてはそのうちしっくり来てしまうだろうことは予感されているのでいいのだけど、いじりながら思ったのが「年齢を重ねるというのは、無意識的に違和感を避けていることなのかもしれない」ということ。何をすればどうなるかという予測がつくと、それで判断や行動を対応させることができるわけで、それが積み重なれば、安定的な世界が拡がっていくのではないだろうか。行動から食事、考え方から喋り方に至るまで習慣化する、パタンができるというのはそういうことなのでは?というわけ。


唐突だが、家での些細な口げんかの発端は、ぼくにあることが多い(らしい^_^;)。それもこの「年齢と違和感の関係」に該当するのかもしれない。自分に慣れた理解の物差しにあうようにあうように、相手の発言を確認したり求めたりしてしまうっているようだ。自覚に乏しい辺りが既に危ない兆候であるよなぁ。。。茂木さんも本の中でこう続けていた。"(モーツァルトは)当時の流行作曲家に比べると、難しいという評判だった。それでも同時代の人がモーツアルトを受容したのは…リズムやメロディ−、構成など人々の間で共有されていた音楽の文法を身に付けていたからである" げに違和感とのつきあい方は注意欠かざるべきものであることよ(汗)。


思考の補助線 (ちくま新書)