分かりあえなくても友達になれるのが、コミュニケーション(かも)

ある日ある店で、ミラノやパリをいったりきたりしながら仕事をしている方々(女性三人組)と同席。

「ねぇ、イタリア料理ってずるいのよ。おいしい理由は、自然がいいからなのよ。ドライトマトが料理に入ってるとずるい!って思わない?だっておいしいのは、太陽がスゴイおかげなのよ」

いや実に様々なエピソードがてんこ盛りで、膝を乗り出したり笑ったり。自分がそんな立場になったらやっぱり真っ白になって固まっちゃうだろうな…というものから、笑い話みたいなやつまで様々に。いや〜話っぷりも秀逸で、実に面白い。ちょっと教訓みたいなものから、欧州生活の蘊蓄のようなものまでもう満載。

「自分たちが乗る予定の列車が、さっきまで○○分遅れと表示されていたのに、次の瞬間掲示板から消えてちゃったの!(=キャンセルになった) 周りにいた人たち(多分同じ列車になる予定)と"確かにさっきまであったよね!?と思わず目で会話しちゃったわ」
「始発駅だからといって、電車は定刻に発車すると思っちゃいけないしね〜」

彼女らと向こうの人たちとのやりとりにまつわる話に大笑いしながら、ちょっとむずむずっとしていたことがふっと切れた感じになりました。「あぁコミュニケーションって、必ずしも"その人"を分かりあうためのものじゃないんだなぁ…」と思ったんです。あちらの人付き合いというものが、今までよりもちょっと想像できるようになったような気がしました。例えば仕事が終わって飲みにいくというのは、"人"として付きあうことに近い(だからこそ、今じゃ避けられることも珍しくないんだと思います)。でも、"部分"ならば何時だって通じ合おうとすることはできちゃうし、その人の特性も出しやすい。オフィスの机の横でも廊下でも、通りすがりでも、それこそ列に並んでる時だってできる。こういう付き合いの仕方は、プラス思考にも連なっていることなのかもしれないし、各自いろんな面を持ち、増やしながら、それを紹介したり披露したりしながら、その部分部分で結びついたりまた紹介したりしていくこともできる。付き合いの巾は拡がるよなぁ。。。

「列車がキャンセルになっても、結局自分で切符の払い戻しをしなくちゃいけないのよね、まったく。そうやってずら〜っと並んでる払い戻しの列でも、油断してると平気で途中から割り込んでくる。知らん顔してる振りして、気がついたらまず、足が入ってる。足!こっちも何を!っと思って防いでいるつもりなんだけど、その次には腰まで、その次には身体がはいってるのよね〜あれはすごい技だわ!!あはは」
「そんな列で並んでる人に"まったく困るわよね〜""そうだよねぇ"とかなんとか話しかけてしばらくお喋りしてると"ここに入る?"と列に入れてくれたりするの。面白いわね〜」

新明解(第四版)には、"コミュニケーション:言葉による意思の伝達"とある。むむん、言葉に依るとな。英和辞書では「言葉」とは明確には描いていなかったけれど、結局文化や背景が違うもの同士の出会いが当たり前の状況では以心伝心なんて望むべくもなくて、伝えようとしなけりゃ分からない。言葉以外にも身振りやサインというのもあるけれど、どれも何らかの意思表示が伴わないと意味が無い。。。共通の世間や常識を持っている前提で、人と成りまでをある程度理解して受け入れることまでがなんとなく含まれている"こみゅにけーしょん"は、意見や考えとその人を分離することなく扱うもののような気がします。自分を振り返っても、その"人"を対象としてしまいがちなんじゃないかということも、改めて気付きました。う〜む。


彼女らもその場その時は、カチンとしたことなのかもしれないけど、どんどん人に喋ってるうちに面白可笑しい話にしていったのかもしれない。あるいは、話す相手によって切り替える、とか。結局「腹立つよな〜!」って言ってても特に何も変わることはないけど、話を聴いてる人が大笑いすると、話してる方だって気分はいいだろうし、聞いてる方は"面白い話をする人"だってその人の"部分"を認識しちゃうもの。そっちのほうが互いにいいよなぁ。。。