取り込んだもので、自分はできていく(はずであると信じている)


土日に予定がびっしり+平日に飲み会が増えて…という状態ですっかり更新が滞ってしまいましたぁ。いつも思うんですが、ブログって「後で書こう」ということがなかなかできないです。何かが頭に浮かぶと、前のことが急にどうでもよくなっちゃいます。ぼくだけかな。メモでも書いておければ、一週間ぐらいならそれをみながら再生できるんですけどねぇ(笑)。で、いつも何かしら自分なりのオチをつけてから書いていたんですが(え?分からなかった…)、咀嚼の途中でもかいちゃうことにします。


12月15日の「志らくのピン」から始まって、23日広小路亭で80席余りの独演会、28日のシネマ落語、8日のにぎわい座、そして15日に新年最初の「ピン」。会場も、噺も、こちらの状態もまったく違う(であろう"志らく師匠・五連チャン"、志のロード…なんて(苦笑)。ぱっと見、線が細いようにみえて、実は相当エネルギッシュな噺っぷりだということがわかった志らくさん。楽しんだりじんわりしたり悩んだりは反射的に味わえますが、噺も噺家も知っている方がずっと少ない自分には、この浴びてる中から何やらもやもやと湧き上がってくるようなものを、少しずつでも言葉にしてみたい、みようとあがいています。あが。



取るものと出すものの収支は、時にどちらかが超過していることもあるわけですけど、何れにせよ取り込んだもので自分ができていくということに変わりはないのではないか。福岡伸一さんの本にあった"動的平衡"が浮かびます。霧に映した写真は止まって見えているのに、光を反射して映像を構成している霧の粒は常に動き入れ替わっている…というのが正しい例かどうかは怪しいんですが、身体はいつも安定したものとしてあるように思えるけれど、食べたものの分子が細胞を形成し、また次に食べたものの分子によってどんどん入れ替わり、ミクロレベルでは常に変化し続けている、という考え方。食物の栄養だけを消化器官から吸収して細胞に栄養補給をしているという身体像に比べると、食べるものによって(栄養素的には同じでも)体調も変わっちゃうこととかが、個人的にはしっくりきてます。


とは言ってもインプットが増えて、アウトプットが減っていくと、身体ならば便秘か肥満になるわけですが、経験や記憶というのはどうなっていくんでしょうねぇ。落語にいって取り込んだものは、次にまた落語を聞くと出ていってしまうのか、垢のように(笑)貯まっていくのか。栄養成分は不明なれど、心持ちがいいことは疑いが無いのですが。いつの日か地層をくぐり抜けて雨水が川になるように、ある時ふと言葉が顔を出すかも…なんて都合のいいことを考えながらじたばた。


何かを感じても、食べ物を浮かべながらもがく。はい。どうやらそれが今の自分なのです。食べ物と身体の関わりは、例えばビタミンの種類がいつのまにか増えたり、栄養が無いなんて言われていた食べ物(茄子とか)がポリフェノール登場で一躍地位を回復したり…なんてことがここ最近でも幾つも起きているように、有用成分は何かという視点は体験の後追い的にも思えます。しばらく食べ続けてみて、体調をみて、それから分かってくることもあるだろう、と。さて、来週も食うぞ〜!


追伸:落語TV情報
先週のアド街には談春さんが出ていてビックラこきましたがな。正月も落語(?)系で楽しくなりそうで〜す!