人と、モノと場所の関係〜場の力と身体


あるモノを手に入れて、使いはじめる。よく使うモノは、使う場所が決まってくる。その場所に座り、そのモノを使うと、することもだんだんと絞られ、決まってくる。新しいモノを入手すると…。


iPhoneを使いはじめてもうすぐ1年。いろんなことを感じ、今までしていたことのやり方が変わり、新しくはじめたことが増えました。最近、気がついて驚いたのは、自分の中でPCの位置づけというか役割が変わってしまっていたことでした。「次に買うなら、15インチにこだわることも無いなぁ、それよりもどこに座っても使えるAirかな」なんて思うようになってしまってました。


ぼくが自宅で使っているのは、15インチのMacbookPro。デスクトップ機から、ノートタイプに完全に切り替えて3台目になります。ノートをメインにした理由は、持ち運べるので家のどの部屋でも使えるというのが、理由でした。えぇ、デスクトップよりも割高なノートを買うためには、自分で背中を押す必要もあったんです。いろんなアプリを使うから画面はなるべく大きめにしたい。そんななかでたどり着いたのが、今のマシン。


家の中で自分の部屋はありません(あえて作らなかった)。でも、不思議なもので、リビングで自分の定位置が決まると、そこであれもこれも出来るようにその周りをいじっていく。そうするうちに、なんのことはない、Macをやる場所が固定化。これが恐いというか面白いのですけど、場所が固定化すると、そこですることも定まっちゃうのです。身体がそう動く。そうすると頭がそのモードに入る。そんな感じです。たまに、会社の仕事を…とか、本を読もうと思っても、ダメ。いえ、きっとその場所でがんがん本読んでれば、出来るようになるんです。でもそれには、Macを開くよりも先に読みたくなる本が、何冊か必要なんです。


このことは、逆用するとすごく効果的にいろんなことが出来るわけです。起床して、自分の椅子に座るとまず、テレビのスイッチを入れる。通勤電車の定位置に乗れば、本を読む。会社の自席なんて、その究極かもしれませんよね。こういう場合、時間との組み合わせが生じていることも多いのだと思います。哲学の道を歩きながら思索にふけったというのは、西田幾多郎氏したっけ。毎日決まった時刻に家を出たり風呂に入っていたのは、ノーベル賞を受賞した益川氏でしたよね。もしかしたら、すごく効果的に、そのことを使われた事例なのかもしれないと思います。


でも、面白いのはPCが会社になかった時代と今では、同じ自席でもすることが変わっていることです。違った理由はいろいろ挙げられると思いますが、そのひとつはPCだと思います。考えごとをしたり、あれこれ思い巡らせる時には、自席は向きません。意識してモニターのスイッチを切ったり、モニターの位置を変えられるようにフレキシブルアームを買ったりしましたけど、やっぱり違うことをやり続けるには意識し続けることが必要でした。ぼくの場合、これが結構大変なことでした。同じ場所でがんばるよりも、ノートとpalmiPhoneをもって、外がよく見えるリフレッシュコーナーにいったり、誰もいない食堂に座ったり、外を歩きながら考えたりと、場所を変えることを意識するようにしてみてます。


ノートブックを買う時の理由だった、"場所に制約されない"は、いまiPhoneが受け持ってます。絵に描いた餅ではなく、家の中だろうと外であろうと自由自在という感覚で、Macではやろうと思いなあらできなかったことまで。優先度の高い究極の"場所"は、身につけるということなのではないかと感じています。そう考えると、片手でいろいろ出来るiPhoneは、palmよりもPDA(今は死語、なのかな?)だなーと思ってしまいます。


場所と人の組み合わせで、「場」というものが形成されると個人的には思っているんですが、これにモノが加わると「場」の持つ力は強くなる。頭のスイッチは意識して入れることも出来るけれど、身体がスイッチを入れることも多いです。場の力は、身体が感応するように思います。
さて、設置型の機器、ホワイトボードとかコピーとかモニターなどは、ぼくみたいにふらふらするタイプが増えたら人や場所との関係や、役割が変わる!?かも。それがいまは、密かな楽しみです。