何かが伝えられていくためには、それを受け入れたり、使う人が不可欠であること@金細工(かんぜーく)またよし(首里、沖縄)


先月(もう先月だ…)の沖縄行きでは、今まで気になっていたところを、訪ねてきました。ご紹介した以外にも、一番好きなちんすこうのお店"本家新垣菓子店"や、自家製の釜でパンを焼いている"宗像堂ベーカリー"、山羊料理が復活していた"さかえ"に、みごとな回遊式の中国庭園が無料!で楽しめる久米の"福州園"。。。
そして、首里の"金細工(かんぜーく)またよし"。直接、つくっておられる又吉さんにお会いでき、お仕事の手を休めていろいろなお話も聞かせていただきました。このこと、書いておきたいな〜と思いながら、揺さぶられた気持ちがなかなか収まらず、言葉にできないまま時間が経ってしまいました。


沖縄には、新旧併せて実に様々な工芸があります。有名な織物・染め物、それに焼き物。なかなかわからないのが、漆器と金細工でした。「日本の手仕事」には、漆器はでているのですが金細工はでていません。でも、王朝が続き、いまでも踊りの盛んな琉球に、金細工がなかったら、不自然ですよね。


又吉さんが作られているのは、主に指輪と簪(かんざし)です。昔の琉球女性たちが身につけていたという、とてもシンプルな銀細工です。
指輪の中でも、「房指輪」と呼ばれるものは、婚礼の指輪だそうです。リングからたわわになっているのは、魚や蝶、木の葉など、身の周りのものばかり七つ。日々の幸せを願う、思いが詰まっているのが、うかがえます。
ジーファー」という簪は、玉がついているわけでも、揺れる飾りがあるわけでもなく、ただ、すらりとした曲線と曲面が連なったもの。直方体にした銀を、八面にし、六面にしてと、作っていくのだそうです。使うのは、金槌と、わずかに曲面を持った金床。ひたすら叩いて、作るのだそうです。陶器のように柔らかな、たおやかな線や面は、人の手が作り出した、蝶や木の葉にならぶ形に思えてきます。年月を経て、整えられてきたこの形は、ある名人が生み出した一芸的な輝きとはまったく別の、吸い寄せられた目が離せない、そして愛でずにはいられない魅力を持っています。そして、春の星のように柔らかな透明感ある光を、放っています。内側から輝いていて、正面から目を合わせるのがちょっと気恥ずかしくなってしまう、女性のような。


又吉さんは、「これは自分が作っていることに違いは無いが、自分が作り出したものではない」と繰り返し口にされました。戦争ですべてを失ない、何も無い中から再び道具を作った又吉さんの父。その父に、再び琉球の金細工を…と背中を押した本土の人たち。そして何より、これらを身につけていた琉球の女性たち。そういう人たちの連なりの中に、今の自分があり、そこに返す気持ちだと。「自分の名前を出したいとか、自分なりのものを生み出したい、ということは考えられないのです」穏やかで、明確な言葉でした。

伝統芸能は、ただ現代ふうに新しく解釈し直せばいいというものではない。美学を守りつつ、新しくしてこそ、面白いのであって、(その結果)残るものになる。だからこそ、そこにセンスが問われるのだ」(立川志らく、「ヒトコト」より)

いきなり落語に話が飛んで、すみません。「人」「道具」、そしてそこから生まれる「もの」。それらを、この人の言葉に代弁してもらおうと思います。
シネマ落語という新しいジャンルをつくり、例え人情噺でも落語である以上笑いを込めることを自らに課し、そして今まさに変わりつつある、志らくさんの言葉は、本質的なことを言い表わしていると思います。何かをやり続け、先頭にいる人が、発する言葉には、重みがあります。そして、落語とか工芸などというジャンルを越えて、重なるように思います。時代で変化する言葉でできた落語に比べ、ものが伝えられていく工芸は、守ることと新しいことが、はっきりとした違いになって現れることは、少ないかもしれませんから、難しさの種類や質は、同じではないかもしれませんが。
志らくさんは、このシリーズの他の回でも、みごとに核心を衝いてます。そして、そのどれもが、自分にチクリと刺さります。

「子供に媚びた時点で、文化は滅びる」
「想像力が無いのが、無知である」
「5人に好かれ、5人に嫌われる人が本物」

なにかが続いていくには、伝え、生み出す人の創意工夫があります。そこには、伝えられてきたものと新しいものを、選択して、受け入れる側も必要です。食べ物でも、工芸でも、落語でも、少し考えれば当たり前のことですよね。ところが、自分もそんな、作り手と使い手という繋がりの中にいることを、あまり意識せずにいました。そのことの痛みを、感じたのだと思います。何を、選び、使ってゆくか。そういうことを、いままでよりもう少し真剣に、たのしもうと思います。


先日、お願いしてきた房指輪が、届きました。八八八六の、琉歌が添えられて。三線がひければ、唄えるのですけどねぇ。板張りの工房で、お弟子さんたちと銀を打つ、大きくて、柔らかい鎚の音がよみがえりました。