志らくのピン@内幸町ホール(2009年6月9日、東京)

毎月一度のお楽しみ。最近気付いたのですけど、枕も構成してるのじゃないかな。この日は、まず「ギャップは笑いや感動の元である」。そして新シリーズ(?)「街で見かけた現代版落語登場人物、別名:変な人シリーズ」。前回の石神井公園のケーキ屋につづいて、今回は市ケ谷ルノアールで、コーヒーを三つ頼んで叩きながら立ち尽くす、ばあさま。楳図かずおに出てきそうな。。。


二人旅〜萬金丹

一体誰が、どんなきっかけで、こういう噺を作れるのか(wikipwdiaによると、元は講談らしい)。ストーリって、、、なんだっけ? 滑稽噺と呼ばれる類いなのだそうですが、場面も登場人物も、固有名詞は無くたって構わない(←自分が覚えてない)。

 おまんまー!
 かぽかぽかぽ。(笑い声)

オノマトペも含めて、こういう台詞の盛り込み方の、テンポがいいですねー。小さい頃の環境、そして入門後の昭和歌謡と、音楽に親しんできた時間が長いことや、映画や演劇との濃厚接触、さらに句会などが、こういうことに響く…のかもしれないですね。
枕に続いて一層パワーアップする、飯屋の怪奇なばーさんの存在感。やることは子供っぽいのに、存在は妖怪のような。こういう奇っ怪なキャラは、好きなんでしょうね。背格好まで、浮かばせてくれますもの。そして、自分がその域に、だんだんと近づいたからなんでしょうか、これって年寄りの本質に結構近いんじゃないかろうか…なんて。

この噺は、やりとりをする両方のキャラに、まだ実在感があると思うんですが、ハイな情景が続きながら、どこか最初から最後まで、夢の中にいるようにも感じるのが「萬金丹」。でも、子供的な笑いと、シニカルとナンセンスな部分の笑いが混じり合っていたり、ある時間をぐ〜んと拡大して、具体的な状況設定は"まぁいいじゃないかそんなこと!"なんてところは、似てるように思います。
今回志らくさんは、解説の中で、"進化しつつあることが感じられるので、師匠の背中を追いかけるためにも、この噺をやってみる"という決意のほどを書いていました。この先、聴いて楽しむ自分のほうの変化も、こういう噺を聞いた反応で分かってしまいそうな…気がします。危険。

ねずみ

「人情噺を落語に戻す会」発起人?の志らくさんが、この日まな板に載せたのは、左甚五郎ものでした。人情噺って好きだったんですが、同じ噺をいろんな人で何回か聴いていると、設定や流れに不自然な部分を感じるようにもなってきました(余裕ができてきた、ということなのでしょう)。四月にインタビュー番組で、家元・談志はこう言いきってました。

 人情噺ってのは、良いことをすりゃ、善いことが返ってくるっていう噺だ。

すっと入ってきました。個人の妄想でしかないんですが、人情噺って、そういうことは、当たり前ではなかった。だからこそ、"そうあって欲しい"という思いが、人気をよんだのではないかな、と。今は、TVドラマや映画も豊富です。ありえないストーリーに感動することもできれば、奇跡の物語も珍しくないともいえます。ならば、人情噺を(当時のまま)やり、それに涙するのもひとつの姿なら、一度解体して、改めて落語としてかけるのも、自然ではないか。まぁ、理屈はどうあれ、涙する人情噺よりも、笑いもあってしんみりもする…というほうが、いまは自分としてしっくりするのです。

聴くも笑い、語るも笑いの物語。
生まれは飛騨の高山、住まいは江戸、日本橋橘町の政五郎内甚五郎としてくれ。。。。あれ、ばれちゃった?
ぴょんぴょんと跳ねるのが、なんだか楽しくなってきた。
うへ〜う〜へぇ〜
決して覗いちゃいけねぇよ。鶴じゃないけど。織物しないけど。。。ちゅちゅーちゅーーーっ!

なんだか知らないうちに、覚えちゃいましたよ、まったく(笑)。誰かに話して、もう一度笑いたいんだけど、帰って喋っても白い目だし。迷酒「土人盛」をヒトナメ、してみたくなるのでありました。