雲上落語会@立川談志独演会(読売ホール、東京)


落語会に足を運ぶようになって、10ヶ月。初めての、家元・立川談志です。独演会(読売ホール)に四、五、六月と行ってきました。月曜日(6月29日)の会で自ら好きな噺としてあげていた、「粗忽長屋」「金玉医者」「よかちょろ」を、この三回で取り上げてくれたのは、きっとビギナーズラックです。


ただ、この会、家元の落語、どういう言葉で表したらいいのだろう。家族に「どうだった?」と尋ねられても、言葉にできませんでした。あまりに、何から何まで、他の噺家と違うのです。
出囃子が、一度終わって、もう一度終わる頃、「もしかしたら、今日はまだ来ていないのか!?」なんて、こちらがドキドキしているところに、ちょっこり小柄な姿を現した瞬間から、座布団に座るまでの一挙手一投足も、観客のつくる雰囲気も、全部が、今まで見てきた誰とも似ていない。それがどんな具合に違うのか…ということを言い表わせないのです。

 生命現象や自然は、流れているものです。流れを止めて、ある瞬間を切り出すことはできるけれど、何かが失われている。だから、切り出したものを全部合わせても、命は生まれない。

6月30日、独演会の翌日、佐藤卓さんと福岡伸一さんのトーク・セッションへ。佐藤さんの用意してくれたキーワードもあり、福岡さんは淡々と、でも熱く語りました。
真っ先に浮かんだのは、落語のDVDでした。自分が見に行ったのと同じ会が、目の前の画面に映っているのに、逆にそれ故に、ものすごい距離があるように感じた経験。あぁそれは、この映像の中からは、自分がいろんな感覚を使って味わっていた流れが、感じられないからなのだな、と。そして次に浮かんだのが、家元の落語会でした。


「あたし、噺とジョークのいったり来たりが、時々分からなくなっちゃった…」独演会終了後、会場を出る列から、そんな会話が聞こえてきました。そう、そうなんです。噺をしているのと、同じテンポ、リズムで「…ところでサ」「あいつはね、…」「おーい、日本橋の…どこだっけ?(と袖に問い掛ける)」なんて具合に、とっても自然に、脇道が急に現れる。本当にもう、不思議なくらい、自然な流れで。そうやって、ジョークやひねりを口にしたかと思うと、次の瞬間、逸れる前の台詞に、ぴったりと戻ってる。聴いているこちらも一緒になって、宙をふわふわと漂うように、徘徊しているような気分になってました。


想像でしかないけれど、きっと一緒に成長してきた観客が何人もいることで、作り出されるものがここにはあるのですね。その中で「俺が、座布団に座る前から、落語の一部なんだ」と、ちょっと辛そうに膝を折る家元。二階席からは、とってもちっちゃかったけど、自由自在に流れを作り、乗り、自らも流れていく、存在感の大きさ。緩さと緊張感が、渾然一体となった中で、感覚フル稼働できる約二時間に、たっぷり浸る。画面経由じゃ絶対できないであろう、そんな場に居られて、楽しめて、よかったなぁと、今さらながら、改めて思うのでありました。

でもやっぱり、知らない人には、伝えられていないのかもなぁ。。。うぅむ。