毎月のお楽しみ@立川志らく独演会・志らくのピン(2009年9月15日、内幸町・東京)


夏に、落語の後日談を演劇で、その一月後にはロックのライブで落語。舞台で落語と格闘する、志らくさん。先週のにぎわい座に続き、毎月の独演会に行ってきました。この会、志らくさんは事前に演目と、コラムを配ってくれます。その中で、こんなことを。

芸はその土地にあわせというのは間違いです。客は年齢層ではなく、それを受け止める感受性があるかどうか。価値観を共有出来るのであれば、芸人は同じ芸を堂々とぶつければいいのです。※

あぁ、落語だろうが別の芸能だろうが芸術だろうが、どんなものでも共通してそう。観に行くぼくらの側のための、楽しむ、楽しんで帰ってくるための、大きな秘訣えすねぇ。客席の空気や、反応の違いって、こういうものでできているのかもしれません。


唐突ですが、この前の日に試写会を観てきた、「パリ・オペラ座のすべて」。この中で、ある教師が練習後にダンサーに向かって、こう告げるシーンがありました。

ぼくが教えられることはすべて教えた。あとは、踊る君の責任だ。

教師(師匠)というものの役割というか、関係というか、実にはっきりしてますね〜。大抵の場合ストーリーがあって、しかも何人ものダンサーや舞台セット、音楽などと一体になるバレエであっても、ソロやデュエットで踊るダンサーには、そういうものが求められ、それをクリアしたものだけが喝采を受ける…のだと思います。それにしても、伝承のしかたや練習など、違いはいくらでもあるはずですが、志らくさんを見ていると、言葉の無いバレエの世界と、言葉なしではあり得ない落語の世界は、意外に近いところにあるように思えます。


さて、この日のラインナップは、

立川らく次 勘定板
立川志らく 強情灸
立川志らく そば清
 仲入り
立川志らく 唐茄子屋政談

志らくさんの第一声は、最初にあの噺をやるか〜?、と。わはは。きっと、師匠に似てチャレンジャブルなんでしょうね。"食欲の無い"家元のこと、ZAZENBOYSのライブのこと、代演のことなどなどの枕話で、一気に会場の空気が締まっていきました。


「ぁぉうっ」いつものことながら、どう表記していいのか分からない雄叫びのような(苦笑)、志らくさんならではの掛け声。でもこの声で、しらないはずの長屋の場面が浮かぶスイッチが入るから、面白い(…逸れますけど、きっとそういう絵が浮かぶのは、多分時代劇の影響でしょう。もし、時代劇がなくなったら、落語はやりにくいかもしれませんね)。それにしても、強情の張り合いで、ついに幻覚まで見えてしまうところまで行っちゃった…。なんだかそれが、リアルに感じちゃう。そこまでじゃないけど、人間ドックで再検査自慢大会をしたり、数値が高いほど声高になるおじさんに、通じるものがあるような。あはは。灸って、極小版焼き芋つくるの図ですよね。どうやって流行ったのかは知らないけれど、意外に今でも似たことやって楽しんでるのかも。


会社に入ったばかりの頃、工場実習に行った先で、わんこ蕎麦に連れていってもらったことがありました。ただ勢いで数を重ね、あとで苦しんだあの日がよみがえるような…そば清。そうそう、大食いは、時間かけちゃダメ。スピード命。っていったって、そこまで行っちゃったかという見事な食べっぷり!の清さん。しかし、その変わりようは楳図マンガの域ではないか(笑)。人間、貫けばスゴイ(って違うか)。それにしても、こんな職業?あったんですねぇ、佐平次以外にも。


この噺、殿様とか武士とかじゃない人たちが作ってます。メリハリとか盛り上がりみたいなものは、そういう人が出てきたほうがいいんでしょうけど、逆に、リアルな感じは減ってしまうように思うし、こういうほうが、なんだか面白いです。出だしは、「たちきり」みたい。でも、若旦那のキャラの違いで、筋だってこんなふうに変わるぜ〜と。それにしても、なんで唐茄子?いったい、いくつカボチャを天秤で運んでたんでしょ。今ならさしずめ、時々駅前に軽トラで来てる、桃とかメロンかな。う〜ん、感じ出ないですね。
自らお店を飛び出して、なんだかんだで最後は身投げまで試みた若旦那が、人助けして、大家をぼこぼこにしちゃう一面まで持ってる。でも、だからリアルなんでしょうねぇ。均一な太さじゃない糸だから、魅力的に見える紬みたいに。


さて、また来月。


※追記:この辺りについて、志らくさん自身がブログにかかれています。(9月20日