twitterから想像する、少し先の世界

引き続き、もう一度twitterです。というか、昨日のエントリー、分かりにくいですね(爆)。。。反省。(昨日のエントリーを読んでくれた方、すみません!)。整理を改めてしてみます。今さらですが。

  • twitterの仕様や使い勝手はiPhoneとの相性が素晴らしく、機器とインターフェースの適切なマッチングは、新しい習慣を素早く根付かせることに繋がる
  • 行動とともにあるtwitterは、場所に依存した時間ではなく、個人個人の時間により近い
  • 視覚的な表現の工夫一つで、意識はそれまでの当たり前から無意識的に変わっていく可能性がある
  • 新しいことを習慣にすると、それまでやっていたことを、改めて習慣化するための工夫が必要になる

ということかな。三つ目のものは、twitterのエントリーが時刻ではなく、"約○時間前"と表されることで、ローカルな場所に固有の時間から意識が自然に切り離されるのではないかと。ちょっと飛びすぎかもしれませんが、グローバル化は、こんな余り気付かないぐらいの些細に思えるものの積み重ねで、人に影響を与え、ある時あっという間に普遍化してしまったのかもしれないとも思います。



さて、偶然目にした9月29日のNHK・爆笑学問は、味覚を取り上げていました。味覚には、"視覚優位な新しい脳によるもの"と、"苦いものは毒"に代表されるように長い生存競争を生き抜いてきた古い脳によるものの二種類があって、(現代)人の味覚はその融合したものであるのだそうです。そして、目で見て"これは何"と捉えているかで、感じる味が影響を受けていて、苦みのように本来は危険なものを口にしても、それを乗り越えることで快感物質が脳から放出される経験をすることになり、それが積み重なって遂には苦いものを美味しいと感じるようになっていくのだと。
この構図は、味覚以外でもあるかもしれない。例えば素人考えですが、インターフェースにも当てはまるんじゃないかと考えてみました。視覚をおおいいに使う"画面"のインターフェースという新しい部分と、昔からの身体的な感覚を使う"操作"のインターフェースという、二種類があるのではないかと。一度体験しただけで、不思議な既視間隔を覚えてしまったiPhoneは、視覚優位なことを利用しつつ、この両者が見事に組み合わさっているが故に、自然なものとしてあっという間になじんでしまった…のではないかと。でも、そういうことがあり得るとしたら、いつも身につけるように持ち歩く機器で動いているソフトウェアは、二つの味覚のように、(主に)視覚と触覚によって新しいものとそれまでのものをブリッジして、次の段階に導く可能性を持った存在なのではないか。セカイカメラは、機器やネットワークの制約もあって、まだ粗いものではあるけれど、そういうことに繋がる何かを持っているように思えてくるんですよね。



さらなる妄想の域だとは思いますが、機器の将来をこの構図を使って想像してみました。機器や道具には大きく分けて、場所に依存するものと、行動に依存するものに分けられると思います。筆記具のように行動に依存するものは、いろいろなシーンで使うことができ、いってみれば、長い時代を生き抜いて伝えられてきたもの。一方、場所に設置する機器は、技術や社会の在り方にも影響を受けて変容しやすい、と。また後者の変容は、段々と環境に溶け込んで当たり前のものになるか、小型化して身体に寄りそうか、どちらかになってゆくのではないでしょうか。
パソコンは、当初、設置型で共用で使っていたけれど、小型化し、ノートタイプになり、iPhoneとしてポケットに収まり身体から生えたアンテナのようになっています。だからそのうち、電脳メガネや、埋め込みタイプなどになっていくのも、ぼくには不自然ではなさそうに思えてくる(個人の感覚は別であっても)。仮にそうだとすると、現代の設置型の機器たちは、電気やエアコンみたいに壁に、空間に、吸い込まれていくのでしょう。どれぐらい先になるのかは分からないけれど、操作する身体と、その指示に対応する空間や環境という二つで構成されているのが、未来の生活の姿…でしょうか!?