sekai cameraセカイカメラというプロトタイプが目指すAugmented life

まだビジネスとして離陸した訳ではないけれど、最近「クラウド」を追うように「AR」という言葉を聞く回数が増えてます。実際ここ数ヶ月で、どんどんいろんなツールが出てきて、使ったり体感したりできるようになってます。でも、それらのすべてを同じものとして括ってしまうことには、自分の中に抵抗があるので、ちょっとそのことをメモ。何のことかと言えば、頓智・(とんちどっと)が9月24日にリリースしたiPhone版sekaicameraが、久々の壮大なプロトタイプ(?)だと感じるということ。 ※sekaicameraについては、例えばこちら


先日、慶応大学の渡邊恵太さんが「ブレストに関心を持つ人は多いが、そこに留まってはいけない。プロトタイプとして提示するこそ重要」と書かれてました。あれこれ議論を続けるより、もっとシンプルに、身近なものを使ってアイデアを形にして試して、また別の形にする…ということをもっとしよう!と。その通りだ!と頷く一方で 最近目にするメーカーのプロトタイプに力がないようにも感じます(もっとも、両者でプロトタイプの意味するところが、必ずしも同じではないと思うけれど、どちらもプロトタイプと呼ばれてます)。プロトタイプを何度も特集して取り上げてきたAXIS誌でも、少し前にそんな記事が出ていなかったかな(検索で見つけられませんでした。図書館でもう一度みてみます)。
すべての事例が当てはまる訳ではないだろうと思うけれど、後者のような企業のデザイン部門などが作ってきたプロトタイプは、その役割が変わってきているのかもしれません。その背
景には、いろんなことが大きなレベルで変わりつつあることがあるように思います。例えば、西村佳哲さんは新著「自分をいかして生きる」(下)の中で、"海面に頂上を出した海山"の絵を示し、島を"仕事(の成果)"に例えると、海面下には"技術・知識"があり、それは"考え方・価値観"に支えられ、さらに"存在や在り方"というもので海底につながり、その下には、マグマが隠れているというものとして表現されました。そして、戦後日本は既にあった"知識や技術"をどんどん吸収し、"成果"を上げてきたのではないか、と。ところが、今その"技術や知識"は、その下にある"考え方や価値観"が変わるような時期にあって、それは"存在やあり方"レベルから行われている。その中で、従来の技術や知識の範囲の中で改良を続けられる商品は、完成度は増す可能性はあるけれど、大きな変化は起きにくい。そのような状況下では、プロトタイプは作りようがなくなっていく…ということはないか。同じ価値観が長く続けば、「高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている(クラークの第一法則)」さえも否定されてしまうかも(笑)。
自分をいかして生きる


話を戻すと、僕はsekaicameraの提案が、"技術や知識"のレベルに留まることなく、"存在やあり方"にまで達しているかも…と感じています。もちろん、実現のレベルは、まだその第一段階だとしても。例えば従来のメーカー製プロトタイプは、その企業へユーザーを惹きつけ囲い込みたいという欲求が結構露骨にみえていたと思います。そのための、新規な形状や新しい機能だったと。でもsekaicameraは、OSやツールに依存しない(制約としない)し、特定のハードウェアにも依存しない(ある程度の性能のツールは当然必要ですが)。逆に最初から、twitterと連携さえできるのです。加えて井口さんが続けているtwitterでの発信に"インターネットと毎日の生活やコミュニケーションを融合させて、もっと楽しくしよう"という思いや信念が込められていると思います(トップの役割としてこういうことは大事なんだなとも思う)。時事通信湯川さんはこの井口さんのつぶやきだけで、疑似インタビュー的記事を書いてしまいましたしね。この辺りは、「技術力で勝る日本がなぜ事業で負けるのか」という妹尾氏の著作(下)や、「日本の色のついた技術ではもう世界で勝てない」などの一連のSophie525さんのエントリーにも通じるものがあるんじゃないかと。
技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか―画期的な新製品が惨敗する理由

西村さんの絵に直接描かれてはいないですが、"技術や知識"から"仕事の成果"を生み出すのは、"行動"でしょう。具体的には、渡邊さんいうところの"(多くの人は)アイデアを出すことにも、聞くことにも慣れていないのでそれを育めない。また、否定すると偉そうに見られる"という環境の中で、それに陥らずに、育むことをサポートすることと。そしてsekaicameraをどんどん試して、使い方や発展系を考え、提案することだと思います。海には島だけじゃなくて、大陸もあって、その間を人や鳥が渡ります。ネットは、それらの間に個人が自由に使える橋が架かっている状態とも言えるでしょう。島の光景は変わらなくても、海面下の意識が変わることは十分にあると思います。