分からないことをわからないまま、持てるようでいたい


「…既知にみちびかれて読む読み方はやさしく、ときにたのしい。それでいて、ものを読んでいるという満足感を与えてくれる。しかし、知っていることをいくら読んでも新しいことがわかるようにならない。…この既知を読むのをアルファー読みと命名したい。そして、もうひとつの未知を読むのをベーター読みと呼ぶことにする」


年末に書店をふらふらしている時に久しぶりに本に"呼ばれ"てしまった。薄い文庫本だけど、いままでにもいろんなヒントをもらっている、外山滋比古さんの著作を文庫化したもの。手に取ってぱらぱらページをめくって、冒頭の文章にガツン。未知を体験することは、自分でも意識してきたけれど、体験できない種類のもの、読むこともそれに入るわけですけど、これは無意識に遠ざけるようになっていたかもしれないと思い、ドッキリしながら。


「…マニュアルがわからないのは、読む側に力がないからである。みんな、マニュアルを書いた技術者の悪文、不親切のせいにしたのである。…まさか自分たちに読めない文章があるとは思わない。読めなければ、書いた方が悪い。そう考える」


。。。うぅぅ。未知のものを、自分が知らないと認識できるためにも、やっぱり何かが必要なのだなぁ。そして、自分がよくやってるのはもちろん。。。会社でもおなじみにシーンでもあるなぁ「オレに分かるように説明しろ〜」って。学生に会社のイメージを「情報を扱っている会社なのに、情報の伝え方がヘタだと思います」とアンケートに書かれ、「言われちゃったなぁ。確かにそうかもなぁ」という人と「う〜ん、学生だからなぁ。よく分かってないんじゃないか」という人がいる。どっちがいいかじゃなくて、どちらも感じられるようでいられたらいいのかもしれない。


分からないものを分からないままで持ち続けて、いろんなことを経験して、何日も何年もしてからふとそのことが浮かび上がって「こういうことかもしれない。。。」と思える日が来たら。そんなことが日々の中で起こるようになったら、楽しいだろうなぁ。武道とか茶道で基本ってそんな意味も持っているのかなぁ?なんてイメージがふと浮かぶ。自分自身の基本って、何をすることなんだろう。理解できないものを、理解できないままでいいから、イライラせずに、気味悪がらず怖がらずに、気に入った本を本棚に入れておくように、一つでも二つでも一緒にいられるようにしてみよう。そんなことを思いながら、過ごしてる2008年の正月です。


「読み」の整理学 (ちくま文庫)