古典は人間(関係)を考える優れた素材なのかも@リンゼイ・ケンプ〜阪東玉三郎〜立川志の輔、三巨頭を梯子して思う


古典っていわれるだけで、今一つ興味が湧かないことが多かったのだけど、気がついてみれば、年に1〜2度はバレエと歌舞伎にゆき、最近は毎週のように落語。全ての演目が"古典"じゃないにしろ、今までどちらかというと及び腰だった古典がどういうものなのか、自分なりに考えてみるにはいいタイミングなのかもしれません。


土曜日は、シアター・コクーンでリンゼイ・ケンプの「エリザベス一世」。日曜日は歌舞伎座で、芸術祭十月大歌舞伎(夜の部)を。月曜日は立川志の輔さんを野毛のにぎわい座で。う〜満腹。。。



御歳八十歳のパントマイム役者であり、マルチなタレントを発揮するリンゼイさん。初めてだったんですが、その存在感は強烈でした。キリッとした時とは対照的に、ふわふわ途中を漂うような動きの場面では足が地についていないかのように、体重が変化してみえるような所作です。ストーリーは新作だそうで、なかなかに重くかんじるものでした。その奥行きを使う舞台表現といい、人物によって変わる衣装の色の使い方や重ね方といい、バレエにも共通したものを感じます。あちらの基本的なつくり方・表し方なのでしょうね。

演技というのは、基本的に、人間の感情を再構築することだと私は考えています…感情をリメイクしていくというためには、「感受」「浸透」「反応」の3つの過程が必要だということになります

HPで自らの考えをこう述べているのは、玉三郎さん。本朝廿四孝(十種香と狐火)で八重垣姫を演じていました。同じ女役でも、前日のリンゼイさんとはまったく別の色と空気。例えば顔を白く縫っていても、時にずんと重く時にこの世のものとは思えないリンゼイさんは"彼"という存在をいつも感じたんですが、初めて観た玉三郎さんはピュアで裏表ない姫にみえました。それでいて、女性でありながら実在しない女性像を思わせます。まるで、演じながら自分を離れてその自分を観ているような、自分の内側から指先や表情をコントロールする以上のレベルのことをしているようにさえ感じてしまいました。そこにいるのに、ひとり違う世界にいるようにもみえました。歌舞伎でありながら歌舞伎を超えてる…ようにもみえて、視線をそらすことができず、ぐっと惹きつけられ続けてしまいました。



昔から引き継がれてきた演目であってもなくても、今生きている自分で"腑に落ちる"ようにその解釈をする。それを通してまた表現する。玉三郎さんが言葉にしていたそのことは、志の輔さんからも伝わってきました。この日の会は、身投げ屋(柳家金語楼作)、買い物ぶぎ(立川志の輔作)、忠臣ぐらっ(立川志の輔作)となかなか面白く嬉しい新作の三本立て。


「観終わったら静かにお帰り下さい。近所の方とオチがどうだった…などという私語は慎んで下さいね」と珍しく念を押して(笑)始まった、"忠臣ぐらっ"。志の輔さんはこんなこともいってました。

20世紀までは恐らく日本人のだれもが知っていた忠臣蔵も、21世紀はそんなことはないでしょうから、こういう噺がそのきっかけになるのもいいんじゃないでしょうかね。古典の何がいいんだっていわれたら、これを知っていることで知らないよりも楽しみの巾が拡がるよっていうことだと思います

古典というのは、昔のものが今まで伝えられてきたもの。状況やシーンは変化して、例えば"吉原"みたいに想像が混じっていっても、結局出てくるのは人間で。古典(的なもの)はそれを伝えてきた人間やそこに描かれていることから、人間(関係)を考えるヒントがたくさん詰まった素材のようなものなんじゃないかという気がしてきます。


古典を理解する(できる)ようになると、笑いや感情の機微みたいなものも分かるようになってくる…というのは言い過ぎかもしれません。もちろん他の方法でも構わないわけですし。ただ、テンポも雰囲気も割にいいのに何で面白さを余り感じないんだろう? と思う前座の方の落語(失礼!)の理由は、そうしたことに何か関連するものがあるんじゃないかなどと妄想が拡がります。古典を面白くできるかできないかは、古典以外のものを演じたり楽しんだりする時に、結構大事なことなんかもしれないって。もしかしたらそういうことができない人は、例えばいい新作をつくることはできないんじゃないだろうか…とか、楽しむことのハードルが高いんじゃないかとか、そんなことまで連想しちゃいました。ちょっと蛇足ですが、そういうふうに考えると、漫才というのは落語に似たものに扱われることもありますけど、漫才に今も演じ続けられている"古典"というものはあるのかな…?と少々気になっちゃいました。