グスターボ・ドゥダメル+シモン・ボリバル・ユースから貰ったもの


先週金曜日、どこかに寄り道するでもなく家に帰り、22:30からのTVを待ってました。こんなふうにTVをみるのは、本当に久し振りです。昨年12月に東京で行われたグスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラの演奏が放送されたんです。今ごろクラシックを少し聞きはじめた自分にとって、ベネズエラからやって来た彼らの演奏は、それがCDであっても昨年最大の強烈なインパクトのある出来事でした。


放送された演奏の中のドゥダメルのあの落ち着きぶり、そして全身から感じられる楽しんでいる様子。でも20代といえど、タクトを振ってきた回数はとても多いのだそうですね。あの様子では、さもありなん。タクトはくちばし、両手は羽。肩や身体がリズムを刻み、まるで小鳥が全身で唄っているようにみえる指揮ぶりは、素人の自分からでも楽しく、それでいて安定感があり、そして心強く見えました。それに応えるように、時ににこやかに、そしてさっそうと楽器を奏でる若者たち。そこから生まれてくる音楽。(演奏当日、会場でこれを肌で体験した人の感想は、例えばこちら)


そんな彼らと音楽を、ちょっとボ〜っとしながら浴びていて、浮かんできたのがこのフレーズ。

「プレゼンテーションの時代が、終わるんだよ」と、ある打ち合わせ中に、ぼくは言いました。

「ほぼ日」トップページで毎日その日だけ掲載されてる"今日のダーリン"の、1月20日分です。なんというか、半ば無意識的に感じかけているようないないようなこと。こういうことを言葉にするのがうまいです。流石に糸井さんです。ここ数ヶ月、この"今日の〜"コーナーには、自分の心持ちのせいなのか妙にヒットするものがちりばめられていて目が離せません。


自分の中でクラシックは"取っつきにくい"ものでした。日常聴いている音楽との間に何か連続していないものがある、違う世界のものように(勝手に)感じられてしまうのです。なんというか、非の打ち所がないプレゼンに近いような。それが、自分の中で少しずつ埋まっていったきっかけは、振り返ればバレエ音楽だったのだろうと感じています。家人に時々誘ってもらっていくようになったバレエは、言葉がなく仕草まで含めた踊りでいろいろなものを表しています。そこでは音楽はそうした踊りと重なってあるものです。テープかオーケストラが生で演奏しているかよりも、踊りの質とあっているか?の方が響きが大きいのです。「とりあえず、生」ではダメだと(笑)。でもまだ溝は残っていました。


これは完全に受け売りですが、ベネズエラは貧困の中で子供たちの厚生や犯罪に関わることを防ぐ意味を持つ「エル・システマ」という音楽教育の国家プログラムがあるのだそうです。楽器や音楽教育経験は不要、誰でも参加できるこの仕組みによって、初めて楽器に触れた子供たち。今は30万人が参加している(TVの解説)中から選りすぐりのメンバーがシモン・ボリバル・ユースなのだそうです。指揮のドゥダメルもこのプログラム出身。そんな彼らのコンサートは、自分が感じていたクラシックと他の音楽の不連続な印象など、なかったことにしてしまう力を持っていました。「みんな音楽じゃん!」と。


演奏が終わった後で、団員を指名してあちらこちらで立ち上げて客席から拍手をもらったり、登壇の際には楽団員の肩を叩いたり。クラシックであろうが無かろうが、楽しい曲を演奏してる時には笑みがこぼれ、そういう姿を観ているこちらはもっと楽しくなる。こういうことって日常的には当たり前なんですが、クラシックを聴いていてここまでそういうことを感じさせてくれるものは初めてです(…といってもホントにちょろっとしかまだ聞いてないんですが)。こういう振る舞いがあるか無いかで、こんなにも間口の広さを違って感じている自分に、驚いてしまいます。ビッグネーム(←なんですよね、でもどれぐらいすごいのか具体的にしらなくて…)なベルリン・フィルとの共演でも、それは感じられました。う〜ん、やっぱりすごいなぁ。


野暮なことだとは思いつつ、改めて演奏をプレゼンとしてみてみると、まず自分たちが感じたことや伝えたいものがあり、それを大勢の楽団員が持っているのだと思います。そして、あるレベル以上の演奏のスキルがあるので、溢れ出た"気持ち"が、楽器と一緒にある身体や、それを奏でる動きと一体になっている…とでも言えばいいでしょうか(苦笑)。いつも音楽を聴いている時とは、受ける何かも、自分の中で反応している部分も、違っているように感じます。どちらが優れているかというような尺度ではなく、現在のプレゼンの向こう側に、議論ではなく対話のような、姿を予感させる。そんな光景にもみえました。


フィエスタ! チャイコフスキー:交響曲第5番