バレエというオーケストラ@Kバレエ公演「ロミオとジュリエット」(2009年11月6日、東京文化会館)


落語が「歌」である(←堀井憲一郎さん曰く)ならば、言葉の無いバレエは何だろう。誘われて久し振りに足を運んだのは、Kバレエ公演「ロミオとジュリエット」。演目も初めて観るものだし、この会場は舞台も広めで音もいいように思うのでそういう点でもちょっとワクワクしながらの、東京文化会館


いつも思うのですが、バレエの舞台、空間をうまく使っています。光の当て方・使い方や、複数の幕などで奥行きが何段階にも変わってみえるし、遠近感や色をうまく使っているように思える舞台装置。何度観てもはっとしてしまうのは例えば透過タイプの幕。模様や絵が描かれていて前面(観客席側)から光を照射するとどうみても幕。背景のように使われているものが、照明を背後からのものだけに切り替えると、ほぼ透明になって一気に空間が奥に拡がる。外で一人でたたずんでいたり、広間でのパーティになったり、街の中の喧騒だったり、そういう転換がまた楽しみなんですが、この日も存分に味わわせてもらいました。オーケストラはピットの中で見えないけれど、舞台の上にダンサーの人たちとセットが作り出すもう一つのオーケストラ。


さて、一時期怪我が重なり、苦しい時期が続いたであろう熊川哲也さん。彼の踊りを観るのはいつ以来だろう。辛い時期に出演していたTVでよく口にされていた「no pain, no gain!」。頭では分かった気になれるけれど、このことばの意味の、重さと深さは計り知れないですね。舞台の上の彼から感じるしか無いと思う。白い衣装、ロミオ役で登場した彼の、身体にまず目が奪われました。人体模型を思わず連想してしまった(苦笑)、筋肉。そして、踊りの滑らかさ。マニュアルシフトならではの、力を操る運転から、ギアチェンジを感じさせないのにワインディングロードを一定のスピードで駆け抜けていくような滑らかさ。それを"成熟"とか"円熟"といっていいのかどうか少しためらってしまうのだけれど、元々感じていた奔放さを発散するような快活さに、丁寧で慎重な運びが溶け合っているように感じます。粗さも含めて魅力的で好みのタイプだった泡盛が、5年経って"ひねる"ことなく練れたような。マリアージュの相手の幅が拡がるのはもちろんのこと、単独でちびりちびりと楽しむ夜もいいなぁ…ってかえって分かりにくいですね(笑)。


この日の公演で最も印象的だった光景は、すべてが終わって、再び幕が上がった舞台の上での第一回目のアンコールに応えた、ロミオとジュリエットでした。ジュリエット役の、康村和恵さんは、まだ"こちら"に戻ってきていない顔をしていました。短剣を自分の胸に突き立てた最後のシーンが、まだそこにはありました。彼女の踊りを観たのは初めてだと思いますが、この日の彼女は、まさに息をのむ演技の連続でした。純粋で脆い、激しさや強さ。愛おしいとは、苦しいとはどういうことなのか。自分を信じる力と揺れる心。一切の言葉はそこに無いのですが、手の表情とバレエ独特の足やつま先の使い方(…これはホントに凄かったなぁ)によって舞台の上に生まれたのは、解釈や変換を飛び越えて直接響いてくる音楽みたいな世界だったと思います。
落語はその「歌」によって、心地よく気持ちに響いて笑ったり涙ぐんだりさせてくれるものだとすると、彼女がこの夜舞台の上に創り上げたものは、そういった観る側の反応も越えたもの。なんというか、口をぼ〜っと開けたまま、何の反応もできずに、ただひたすら見惚れてしまうだけの世界。目で舞台、耳でオーケストラ、肌で空気。ダンサーって目で聴く楽器みたいなものなのかもしれないな…そんなことを最初は感じていたんですが、彼女は、ある時はバイオリン、そしてまたピアノでもあり、まるで一人で小さなオーケストラであるかのようで、そんな考えを遥かに越えていました。オーケストラの中にあるもう一つのオーケストラ、そんな存在でした。


いい公演を観たあとって、無口になるような気がするんですが、どうでしょう。まだ舞台の上の空気が自分の中に残っていて、言葉になる前のところで反芻している感覚。上野駅から山手線に乗って、いつになく口数少なく、でも(多分)とても大切なものを体験した感覚をやりとりしながらの、帰り道でした。