最近のランチ(2009年9月)

  • BACARI da Porta Portese(イタリアン、渋谷)

この店は、別に書きました

  • たけや支店(蕎麦、鎌倉)

鎌倉小町通りを入ったところにある、こぢんまりとした手打ち蕎麦屋小町通りのすぐ近くだが、落ち着いて蕎麦が頂ける。メニューは、せいろ・かけ、それに、天ぷらがついているか・いないかだけの四種類。無用な飾りが無くて、ちょっとキリッとした誂えの店内で、団体やカップルは、まずいない。そういうところは、もしかしたら好みが分かれるかも。鎌倉を歩く時に、いったん外の喧騒を忘れて深呼吸…という時に頭に浮かぶ、ぼくにとっては句読点のような場所。

住所:鎌倉市雪ノ下1-5-10
電話:0467(22)1159
営業時間:11時〜17時
定休日:水曜休

  • (和食、神谷町)

いや〜ここは何といっても、そのロケーションが素晴らしいです。愛宕神社のすぐ横、社務所かと思ったら店でした。周りを眺めながら参道を歩いて上ってくるのも、NHKの横にエレベーターですっとのぼってしまうか、どちらでも大丈夫。座敷に腰高の座イスとテーブルというのは一瞬引いてしまいましたが、窓際の席に着いてみるとその高さ故、気持ちのいい景色。すぐ崖になっているので、木々越しに、さっきまでいたところがまるで別の世界みたいにみえる。
東京の食材を楽しめるこの店のランチ・メニューは、伊豆諸島から魚や焼酎が来ていたりして、そうか東京って広いよなぁ…なんて改めて。いい気持ちにさせてくれたので、ちょっと贅沢に刺し身定食(限定10食、二千円)。この日の刺し身は、鰹・カンパチ・イサキ。これに小鉢が二つ、大ぶりのアラ汁がついてくる。かなり上品なアラ汁だったけれど、これがなかなか。最後に、フレッシュなレモングラスハーブティーをたっぷり。最後に、二礼二拍して、ごちそうさま。

住所:港区愛宕1-5-3 愛宕神社境内
電話:03(5777)5557
営業時間:11時30分〜14時(ランチ)、14〜16時(ティータイム)、17時〜21時30分(ディナー)
定休日:月曜休

  • A.te(イタリアン、新橋)

時々立ち寄る、烏森神社のすぐ側のイタリアン。あのごちゃごちゃしところに、こういうお店もあるというのが面白くて。誰かを連れてくると、みんなちょっとビックリするのがまた楽しい。遅いランチを静かでゆっくりとりたい時や、話しをしながら…なんていう時に、頭に浮かぶ店。
ランチのパスタメニューも、季節の食材が取り入れられていることが多いのも嬉しい。この日は秋刀魚が登場。一度、夜も来てみたいと思いつつ、まだなんだよなぁ。

住所:港区新橋2-15-17 2F
電話:03(5251)0607
営業時間:11時30分〜14時30分(ランチ)、17時30分〜22時30分(ディナー)、22時30分〜25時(バー)
定休日:日曜祝日休、ランチは火曜〜金曜

最近飲む機会が増えたビール。ベルギーもそろそろ…と、まずはランチで偵察できるここへ。日本では4軒、世界には約70店あるそうで、店のデザインは揃えているみたい。広い、天井の高い店内に落ち着いた色使い。ランチは三種類。ミートローフのワンプレートランチを。葉物のサラダと、フレンチポテトがたっぷり。パンもお代わり自由。窓際の席に一人で座って、ぼんやり外見ながらの時間は、悪くない。夜のメニューを見せてもらい、ムール貝がちゃんとあることを確認。夏ごろが旬だけど、今年は今ごろが十分太っていて美味しいそうな。1ヶ月もすれば多分痩せるというから、早めにいってみないとなぁ。

住所:中央区銀座8丁目2-1
電話:03(5568)0091
営業時間:11時30分〜14時(ランチ)、17時〜22時(ディナー)、28時までバー
定休日:不定休(ビルの休みの日)

中目黒に昔からある、ビストロ。今年、駅前から目黒警察の近くに引っ越したことを偶然知って。前の店を知っている身からすると、かな〜りゆったりとしましたね。特にテーブル席。グループでも十分OKです。前にも食べたことのある、カレーをメインにして、前菜にレバーのソテーと、鰯。グラスワインに…あぁ、土曜の昼からなんて楽しい(笑)。

住所:目黒区中目黒4-6-2
電話:03(5722)3492
営業時間:12時〜14時(土曜日のみのランチ)、18時〜24時(ディナー)
定休日:日曜、第3月曜休み

 


他にも数店いきましたけど、割愛。

 

人のつながりで、速度も距離感も変えてしまう


3日続けての、twitter話(すみませーん)。

恐る恐るだったみたいなこともあって、フォローした人(※フォローしたユーザーのつぶやきが、見ることができるようになります)の数もとっても少なかったし、ちょっと勉強的な気分でBBCとかCNNみたいなニュース、当時メキシコ中心に大変なことになってた米国CDC(国立疾病予防管理センター)をフォローしたもんだから、その頃は新しいニュース・チャンネルみたいに感じてましたっけ。実際、小沢代表の辞任も、イチローの200本安打もtwitterで知ったことだったし(…ずいぶん昔のことに思えちゃうなぁ)。


昨晩Yahoo!トピックスに、鳩山首相と居酒屋で話してきた…というさとなおさんのブログが載ったんですが、会食している最中も、twitterでそのことがポツポツと発信されていて、もう驚いたりドキドキしたり。ほぼリアルタイムでそれを見ている時は、鳩山さんが今までのどの総理大臣よりも距離が近い気がしたり(もちろん、気のせいです)。ところが、Yahoo!で今朝それを画面で読んだ時には、TVや新聞の距離感になっちゃった。


そう感じる原因は、「速度」と「距離感」にあるんじゃないか。twitterは、とにかく速い。感覚的には、ほぼリアルタイムに感じるぐらいの速度。実際にはじっと見ているわけじゃないのに、そう思えるぐらい。しかも、個人的な内容じゃないものもあるから、またスゴイと思う。自分でやってみても、歩きながらとか、何かをしながら実況中継ふうに使うことに、違和感は余りない(エチケット的には気をつけなくちゃと思うけど)。そういうものって初めてなんじゃないかなぁ。
そして、「相手」を感じられる距離感。見知らぬ人が伝えてくれたものであっても、それが錯覚(?)であると分かっていても、多くの場合、距離を近く感じるのだ。twitterは、自分が関心を持っている人や、興味のあることに関わっている人を探し、フォローするかどうかは、自分で決める。誰かが自分をフォローしてくれた時も、じゃぁ、こちらからも…という時も同じ。それが"距離感"に、一役買っているのだろう。
結果として、TVや新聞ではほぼ間違いなく伝えられない、けれど自分にとっては関心のあるニュースを、あっという間に知ることができちゃう。なんたってフォローしたその人が、大元の発信者だったりすることもあるわけだから、速度も距離感も違ってもしょうがない。


逆に、誰が発信しているものかをまったく伺い知ることができない新聞やTV(要は記事を書いている記者、ということになるのだと思う)の場合、雑誌でよくある"メーカーのタイアップ広告記事"のように思えてきたりしちゃうのだ。特に最近のように、記者クラブの存在とか、どのチャンネルも同じニュースを微に入り細に入り、延々と繰り返している時はなおさらのこと。そういうことが珍しくなくなってくると、新聞やTVも、それまでとは別の面に気付く。例えば、"新聞やTVって匿名発言の大御所じゃん"とか、"少し前までは、広く遠くまで届くようにすることが大事だったんだよな"とか、"限られた場所や時間にしか見られないんだな"とかとか。
まぁそんなことを考えていても、しょせん自分の場合フォローしているのは、今のところ、わずか50人ぐらい。数百、数千、何万とフォローしている人たちは、また違うものがみえているんだろうなぁ。彼ら彼女らは、どんな速度と距離感を味わっているんだろう?


「ぴあ」のライブ・エンタテイメント調査では、音楽・ステージ・スポーツなどのライブもの(映画を除く)は、昨年も観客数、金額ともに伸びているという。一方で新聞や雑誌、TVの視聴率などはかつてない厳しさ。利用者の行動調査から見ても、一度に大勢を相手にするビジネスの勢いは、"誰"が明確なものとそうじゃないもので、ずいぶん違いそうだ。iPhoneみたいなものの価格がぐ〜んとこなれて、10代でも多く持つようになってtwitterとか使いはじめたら、どうなっちゃうんだろうなぁ。あぁ、それよりブログも自分も、貯めたりせずに更新せねば…(爆)。


 

 twitterから想像する、少し先の世界

引き続き、もう一度twitterです。というか、昨日のエントリー、分かりにくいですね(爆)。。。反省。(昨日のエントリーを読んでくれた方、すみません!)。整理を改めてしてみます。今さらですが。

  • twitterの仕様や使い勝手はiPhoneとの相性が素晴らしく、機器とインターフェースの適切なマッチングは、新しい習慣を素早く根付かせることに繋がる
  • 行動とともにあるtwitterは、場所に依存した時間ではなく、個人個人の時間により近い
  • 視覚的な表現の工夫一つで、意識はそれまでの当たり前から無意識的に変わっていく可能性がある
  • 新しいことを習慣にすると、それまでやっていたことを、改めて習慣化するための工夫が必要になる

ということかな。三つ目のものは、twitterのエントリーが時刻ではなく、"約○時間前"と表されることで、ローカルな場所に固有の時間から意識が自然に切り離されるのではないかと。ちょっと飛びすぎかもしれませんが、グローバル化は、こんな余り気付かないぐらいの些細に思えるものの積み重ねで、人に影響を与え、ある時あっという間に普遍化してしまったのかもしれないとも思います。



さて、偶然目にした9月29日のNHK・爆笑学問は、味覚を取り上げていました。味覚には、"視覚優位な新しい脳によるもの"と、"苦いものは毒"に代表されるように長い生存競争を生き抜いてきた古い脳によるものの二種類があって、(現代)人の味覚はその融合したものであるのだそうです。そして、目で見て"これは何"と捉えているかで、感じる味が影響を受けていて、苦みのように本来は危険なものを口にしても、それを乗り越えることで快感物質が脳から放出される経験をすることになり、それが積み重なって遂には苦いものを美味しいと感じるようになっていくのだと。
この構図は、味覚以外でもあるかもしれない。例えば素人考えですが、インターフェースにも当てはまるんじゃないかと考えてみました。視覚をおおいいに使う"画面"のインターフェースという新しい部分と、昔からの身体的な感覚を使う"操作"のインターフェースという、二種類があるのではないかと。一度体験しただけで、不思議な既視間隔を覚えてしまったiPhoneは、視覚優位なことを利用しつつ、この両者が見事に組み合わさっているが故に、自然なものとしてあっという間になじんでしまった…のではないかと。でも、そういうことがあり得るとしたら、いつも身につけるように持ち歩く機器で動いているソフトウェアは、二つの味覚のように、(主に)視覚と触覚によって新しいものとそれまでのものをブリッジして、次の段階に導く可能性を持った存在なのではないか。セカイカメラは、機器やネットワークの制約もあって、まだ粗いものではあるけれど、そういうことに繋がる何かを持っているように思えてくるんですよね。



さらなる妄想の域だとは思いますが、機器の将来をこの構図を使って想像してみました。機器や道具には大きく分けて、場所に依存するものと、行動に依存するものに分けられると思います。筆記具のように行動に依存するものは、いろいろなシーンで使うことができ、いってみれば、長い時代を生き抜いて伝えられてきたもの。一方、場所に設置する機器は、技術や社会の在り方にも影響を受けて変容しやすい、と。また後者の変容は、段々と環境に溶け込んで当たり前のものになるか、小型化して身体に寄りそうか、どちらかになってゆくのではないでしょうか。
パソコンは、当初、設置型で共用で使っていたけれど、小型化し、ノートタイプになり、iPhoneとしてポケットに収まり身体から生えたアンテナのようになっています。だからそのうち、電脳メガネや、埋め込みタイプなどになっていくのも、ぼくには不自然ではなさそうに思えてくる(個人の感覚は別であっても)。仮にそうだとすると、現代の設置型の機器たちは、電気やエアコンみたいに壁に、空間に、吸い込まれていくのでしょう。どれぐらい先になるのかは分からないけれど、操作する身体と、その指示に対応する空間や環境という二つで構成されているのが、未来の生活の姿…でしょうか!?


 

 twitterで、変わるかもしれないもの


4月ごろから、twitter(ついったー)をなんとなく、始めました。twitterがどんなものかというと、"1回に最大140字しか書けない、mixiみたいなもの"。で、mixiとの大きな違いは、外に対して"閉じていない"こと。すみません、説明になってませんね。それぐらいにしか考えずに始めて、でも、いまだに毎日使ってるんです。自分にとっては、それが感じている特徴の一つであることには、間違いないんですが。

iPhoneがあるから、twitter

このtwitterをやるようになって、iPhoneを手にする頻度も時間も、さらにグンと増加(これは、多くの人がそう書いてますけど、ホントにそう思います)。twitterの面白さは、例えば、街歩きに似てます。雑踏の中を歩いていたり、道に突き出したカフェでぼんやり眺めているような感じ。近くのものも、海外からも、いろんな会話が聞こえてきます。で、自分も時々何だか口にしてる。それも、特定の人のものだけを耳元に届くようにできる。
iPhoneを使っていない方に、伝わるかどうかわからないですが、とにかくこの二つは相性がいい。画面の大きなPCでやるよりも、いい(敢えて、いい切りましょう!)。PCがなんでもできるマシンならば、iPhone上で動いてるアプリは、単機能みたいなもんです。でも、だからこそ快適。モニターサイズにぴったりと収まって、必要な選択や入力をすればいい。Googleがキーワード入力用の窓しかないっていうのが、これい近いかもしれませんね。PCでは無料でできること(例えば、「乗り換え案内」とか)のために、例え数百円であっても、iPhone専用アプリを買うのは理解してできないかもしれません。でも、やってみるとその違いに驚くと思いますよ。スクロールの必要もない、ツールにぴったりあった画面構成や、見え方や、使い心地(←インターフェース)は、こんなにも気持ちいいものなのかって。

それまでのものと、似て非なるtwitter

ワードとかエクセルとかは、PC以前から作られてきた書類を作れるようにしたものだし、パワポもスライドを模したもの。どれも、PC以前からあったものをPCでより効率的にできるようにしたもの。なじみやすいし、何に使うかわかりやすいけれど、"紙の書類"を暗黙の前提にしているから、例えば、初期設定はA4サイズになっているとか、プリントすることを前提にぎっしりいろんな情報を詰め込んじゃう資料が多いとか、そういうことにも繋がっているように思うのです。メールも、いってみればテキスト版留守番電話だし、メモや手紙の置き換え的なもの。これらに共通の傾向は、"量を増やすことに向いている"けれど、"量が増えることに対応できない"ことだと思ってます。何かをした時刻に順番をつけるなどして、量が増えていくものになんとか対処していたように思います。
これが、変わってきたと感じたのは、ブログ。紙のサイズとは関係ない世界で、個人毎の時間軸で流れてゆく(そういえば、巻紙というのはスクロールするもので、絵巻物などの時間の連なりは、ユニークな気がします)。更新も修正も、いつでもできるし、リンクやトラックバックみたいなことができるので、絶対的な時間尺度での新しい・古いというものが揺らいできた。"検索"が当たり前になってきたことも、影響してるでしょう。PC上のアイコンや呼び名などにはまだ残っているものの、旧来からの"紙"類ののメタファーは、(ほとんど)意識しなくなったんじゃないかと。
さて、twitterミニブログなんて紹介されることもありますが、自分の実感としてはずいぶん違います。まだうまく言葉に落ちてこないんですが、ブログが"どこかで店を構えている"とすれば、twitterは"歩いてる"ような感じかなぁ。"紙"からはもちろん、"場所"からも自由になったような。これは、iPhoneとの相性の良さが効いてる気もしますね。メモにもならないようなこともかいたりして、時間の流れ方がブログ以上にマイペース。気持ちの緩急や、書く量の多少もあるし、なにより時計の文字盤を意識してません。これには、書きこんだことが"△分前"とか、"約○時間前"なんて表現されていることも影響してるかもしれません。それと、"フォロー"という、利用者同士の繋がり方にもあると思います。フォローしてる人たちの中に、アメリカ、フランスやオーストラリアの人がいるので、夜とか昼とかという感覚もその中では希薄で、朝起きると昼の世界のあれこれが、たんまり溜まってます(笑)。

発散のリズムに近いtwitter〜変わるのは環境か、自分か

ブログを書くために時間をとることと、他のやりたいことをやるための時間を作ることのバランスが、どうにもうまくとれない悩みを抱えたまま、twitterを始めちゃいましたから、その余波は推して知るべし(苦笑)。でもですね、最初の目論みは逆だったんですよ。twitterでちょこちょこと書いておいて、後からそれを整理すればブログの記事になるんじゃないかって。ところが、twitterで書いたことを、後からまとめようとするのは思ったよりも(ぼくには)難しかった。発散するにはとってもいいツールだけど、それを収束させるのは何か工夫が必要。また新たな課題を抱えることになってしまいました。改めて3×3というカタチでいい制約を作っているが故に、発散と収束がいったり来たり出来るMandalArtは、凄いツールだと(そういう点ではiMandalArtはまだ、発展途中ですね)。
そしてそんな発散的なリズムに身を任せていると、困ったことに(?)メールが辛くなってきちゃったんですね。いえ、ちゃんと使ってますよ〜。でも、twitterで感じるゆるさやリズムに比べると、息苦しく感じるような。逃避だと思いますが(笑)。これはどうなっていくのか、自分のことですがちょっと興味があります。twiterも、どれぐらいかは分からないけれど、いつかは別のツールにその役割を譲る時がくるのでしょうから。それまでの間、twitter、ちょっと体験してみません?(もし、どんなことやっててこんな事を書いちゃったのか、覗いてみたい方は、ここでtakachyという名前を探して下さいね)


…あがっ!今度は、セカイカメラがやってきた!


 

 今月のチーズ(2009年9月)〜白カビ大作戦、失敗。。。

カチョカバッロCACIOCAVALLO (吉田牧場岡山県

以前から食べてみたかったチーズのひとつに、ようやく。ハード系やウォッシュなどのチーズが好きなものでなかなかたどり着けないという個人的な事情もありますが、岡山の吉田牧場製のものは、ただでさえ入手困難と聞きますから、いつも行くフェルミエでの取り扱いが始まったのは、本当にラッキーです。
さて、これ。なんといいますか、なんとも滑らかな表面と印象が、まるで柔らかい磁器(変な表現ですが…)。日本的、といってしまうとお決まりですが、自然にそんな言葉が浮かぶ外観です。皮もそれほど堅いわけではなく、ナイフがすっと入ります。それにしても…きめ細やかな口当たり、穏やかなミルキーな香りと、ほんのりとした甘さ。ワインがなくても、十分にそれだけでうまい!切ってる傍から一つ二つと消えていく(爆)。ワインと合わせずとも、これだけで十分楽しめます。
ホルスタインよりも乳量の少ない、ブラウンスイスという淡い茶色のきれいな種類の牛の乳を使っているそう。乳量は少ないけれど、たんぱく質がやや多く、脂肪の粒がジャージーほど大きくないのでチーズ作りには向いているのだそうです。一度、いろんな種類の牛の"きき乳"とかやってみたいもんです。。。牛乳には弱いんですけどね。

グリュイエール・ダルパージュGRUYERE D'ALPAGE(スイス、ジュラの辺り)

昨年の夏山のエキスをたっぷり含んだ、チーズ。いやぁ、濃い。一年ものなので気持ちまだ柔らかめな感じはしますけど、ハード系のチーズに共通する旨味たっぷり。そして、その味わいもさることながら、ねっとりとした香りがすごい!匂いだけでも、チーズ食べてる感が十分する(ぐらい)。この香り、日本の発酵食品系に通じるように思います。いけるんじゃないかかなぁ。試してみたい…のに、あぁ、何でこの日は冷蔵庫に日本酒が入ってないんだろう。


さて、先日作った、ブラウニーのソースが気に入ったので、チーズにも合わせてみよう!と買ってきたのが白と青の二つ。

クロミエCOULOMMIERS LAIT CRU(フランス、ロレーヌ)

フランスでは、リンゴといえばブルターニュが浮かびます。素直にブルターニュのカマンベールに行くか、白カビの名族・ブリー一門にするか悩んだ揚げ句、ブリー三兄弟(ビリー・ド・モー、ブリー・ド・ムーラン、そしてクロミエ)の、ちょっと熟成した末っ子・クロミエを選んでしまった…のです。が、、、結構こいつの香りは強いなぁ。白カビチーズ=大人し目というイメージでいましたけど(←普段、白カビチーズ食べることがほとんどないので)古漬けみたいで、なかなか主張してます(ちょっと、アンモニア的な香りに思えるような)。チーズそのものの香りとしては、ウォッシュより強いんじゃないか?と思うぐらい。さすがに、ジャムと合わせて味わいは良くても、香りがバランバランだ(涙)。熟成好き欲張りの悲劇(?)。

ブルー・デュ・ベルコール=サスナージュBLEU DU VERCORS-SASSENAGE@France(フランス、ローヌ・アルプ)

辛味と塩気のの少ない、穏やかな味の青カビチーズ。水気も少なくて、ややむっちり。扱いやすいですね。特に表皮に近いほう。これはこれで、美味しいブルー。でも、合わせるなら、蜂蜜の方が好みだなぁ。。。


ということで、翌週再度リベンジ。

パヴェ ダフィノアPAVE D'AFFINOIS(フランス、ローヌ・アルプ)

先日の失敗を教訓にするべく、再度白カビチーズにトライ。ところが、若目のものがあまり無く…。店員さんと相談して、ちょっと南のほうのこれに。"石畳"という名前の通り、筋のついた小さな四角。豆腐みたいでもありますね。若いうちは真四角らしいんですが、熟成してくると面がへこんできて中はトロトロ、という説明を聞いて、これに決めちゃいました。
確かにサン・マルスランなどに比べて塩気はとても穏やかだし、モンドール以上にとっろとろだし、美味しいチーズです。あ、写真を撮る時に思わず横から穴を開けてしまい流れ出してしまい(苦笑)、お恥ずかしい。
ただですね、結果としてリンゴのソースよりは、マヌカの蜂蜜がとってもぴったりでした。だってですね、カラメルと一緒にプリンを食べてるような味わいになるんです!驚きましたよ〜。


二週間に渡る、研究(?)の結果分かったのは、こういうことでしょうか。

結論:チーズと合わせるソース、ジャムは、そのまま食べると甘いぐらい味のちゃんとあるほうがよい。酸味は、(多分)ワインで補うべし。

ちゃんちゃん。


 毎月のお楽しみ@立川志らく独演会・志らくのピン(2009年9月15日、内幸町・東京)


夏に、落語の後日談を演劇で、その一月後にはロックのライブで落語。舞台で落語と格闘する、志らくさん。先週のにぎわい座に続き、毎月の独演会に行ってきました。この会、志らくさんは事前に演目と、コラムを配ってくれます。その中で、こんなことを。

芸はその土地にあわせというのは間違いです。客は年齢層ではなく、それを受け止める感受性があるかどうか。価値観を共有出来るのであれば、芸人は同じ芸を堂々とぶつければいいのです。※

あぁ、落語だろうが別の芸能だろうが芸術だろうが、どんなものでも共通してそう。観に行くぼくらの側のための、楽しむ、楽しんで帰ってくるための、大きな秘訣えすねぇ。客席の空気や、反応の違いって、こういうものでできているのかもしれません。


唐突ですが、この前の日に試写会を観てきた、「パリ・オペラ座のすべて」。この中で、ある教師が練習後にダンサーに向かって、こう告げるシーンがありました。

ぼくが教えられることはすべて教えた。あとは、踊る君の責任だ。

教師(師匠)というものの役割というか、関係というか、実にはっきりしてますね〜。大抵の場合ストーリーがあって、しかも何人ものダンサーや舞台セット、音楽などと一体になるバレエであっても、ソロやデュエットで踊るダンサーには、そういうものが求められ、それをクリアしたものだけが喝采を受ける…のだと思います。それにしても、伝承のしかたや練習など、違いはいくらでもあるはずですが、志らくさんを見ていると、言葉の無いバレエの世界と、言葉なしではあり得ない落語の世界は、意外に近いところにあるように思えます。


さて、この日のラインナップは、

立川らく次 勘定板
立川志らく 強情灸
立川志らく そば清
 仲入り
立川志らく 唐茄子屋政談

志らくさんの第一声は、最初にあの噺をやるか〜?、と。わはは。きっと、師匠に似てチャレンジャブルなんでしょうね。"食欲の無い"家元のこと、ZAZENBOYSのライブのこと、代演のことなどなどの枕話で、一気に会場の空気が締まっていきました。


「ぁぉうっ」いつものことながら、どう表記していいのか分からない雄叫びのような(苦笑)、志らくさんならではの掛け声。でもこの声で、しらないはずの長屋の場面が浮かぶスイッチが入るから、面白い(…逸れますけど、きっとそういう絵が浮かぶのは、多分時代劇の影響でしょう。もし、時代劇がなくなったら、落語はやりにくいかもしれませんね)。それにしても、強情の張り合いで、ついに幻覚まで見えてしまうところまで行っちゃった…。なんだかそれが、リアルに感じちゃう。そこまでじゃないけど、人間ドックで再検査自慢大会をしたり、数値が高いほど声高になるおじさんに、通じるものがあるような。あはは。灸って、極小版焼き芋つくるの図ですよね。どうやって流行ったのかは知らないけれど、意外に今でも似たことやって楽しんでるのかも。


会社に入ったばかりの頃、工場実習に行った先で、わんこ蕎麦に連れていってもらったことがありました。ただ勢いで数を重ね、あとで苦しんだあの日がよみがえるような…そば清。そうそう、大食いは、時間かけちゃダメ。スピード命。っていったって、そこまで行っちゃったかという見事な食べっぷり!の清さん。しかし、その変わりようは楳図マンガの域ではないか(笑)。人間、貫けばスゴイ(って違うか)。それにしても、こんな職業?あったんですねぇ、佐平次以外にも。


この噺、殿様とか武士とかじゃない人たちが作ってます。メリハリとか盛り上がりみたいなものは、そういう人が出てきたほうがいいんでしょうけど、逆に、リアルな感じは減ってしまうように思うし、こういうほうが、なんだか面白いです。出だしは、「たちきり」みたい。でも、若旦那のキャラの違いで、筋だってこんなふうに変わるぜ〜と。それにしても、なんで唐茄子?いったい、いくつカボチャを天秤で運んでたんでしょ。今ならさしずめ、時々駅前に軽トラで来てる、桃とかメロンかな。う〜ん、感じ出ないですね。
自らお店を飛び出して、なんだかんだで最後は身投げまで試みた若旦那が、人助けして、大家をぼこぼこにしちゃう一面まで持ってる。でも、だからリアルなんでしょうねぇ。均一な太さじゃない糸だから、魅力的に見える紬みたいに。


さて、また来月。


※追記:この辺りについて、志らくさん自身がブログにかかれています。(9月20日


 

 奥の奥に…@バカリBacari da Porta Portese(イタリアン、渋谷・東京)


「…あれ?ハンズの向かいってこの辺りだよなぁ。う〜ん。もうちょっと先まで行ってみるかな」。。。って辺りをぐるりと回っちゃいました。結局はiPhoneでビルの名前を再チェックしたら、なんだ〜最初のビルだった。ガタイのいい外人のお兄ちゃん二人がビルの前でビラ配ってて、しっかりチェックしなかったのが敗因だな、きっと。あったあった、店の看板も控えめだ。入り口のらせん階段も目立たないし、ビルの二階に上がってからも、え〜っと、どこだ?(←行ってみたら、分かりますって)。


何となく距離感が掴めず、背中がもそもそする、渋谷。自分の行きつけにしたいところが見つけられていないから、かなと思います。大きい本屋が、きっかけになってくれることが多いんですが、それも成功せずに、今に至る街なのです。やっとたどり着いた(ちょっと大げさか)古びたドアを開けて中に入ると、こぢんまりとした店内。だけど女性の一人客もいれば、年配のカップルもいるし、男性一人客もいる(←珍しい)。店員さんは、昔からここでやってるんですよ〜と錯覚するみたいな雰囲気を醸してる。ひょっとしたら、この店は、渋谷に対する印象を少し変えてくれる…かも。


横浜にある、SALONE2007というイタリアンの前身、銀座にあったシチリアーノは古い細いビルの二階(だったかな?)にありました。引き戸(これも珍しいですよね)を開けると、いきなりテーブル!、中も決して広くなく、キッチンもいろいろ苦労されながらだったんでしょうね。それでいながら、メニューはワクワク。今、SALONEはカジュアルな雰囲気も残しつつ、少し大人な感じの店に成長しました。そのSALONEの兄弟店が、このBACARI。来てみて感じたのは、シチリアーノみたいに「場所は大事だから選ぶけど、店にはなるべくお金を極力かけずに出発、人気が安定的に作り出せれば改めて店を構え直す」ということなのかもなぁってこと。BACARIも、もうすぐ出世魚みたいになるかも(?)しれません。


渋谷で1000円ぐらいのランチなのに、前菜から、デザートとお茶までついてる。さて、その中身やいかに。パスタランチ、サラダランチ、スープランチなどのなかから、アクアパッツァを(沖縄のマース煮が頭の片隅に残ってました)。全体を通しての特徴は、野菜をうまく使ってるというということと、濃い味じゃないのにさっぱりあっさりしすぎていないこと。うまく下準備してるんでしょうね。前菜の盛り合わせは、人参の千切りのマリネ、茄子、ブロッコリーを柔らかく炒め煮したもの、隠元などが、ハーブやアンチョビなどを使って料理されています。どれも、つけたのではなく、引き出した味がベース。同じトーンで、違った野菜の味が、楽しめる。嬉しいのが、パンたっぷり。無くなればすぐさまお代わりは?と聞かれます。これだけあれば、男だって大丈夫、だよなぁ(笑)。
メインは、ソテーに、じゃがいも、浅蜊ブラックオリーブが。「こちらのスープは、パンを浸しされるときっと美味しいと思いますよ」なんて一言を残す、店員さん。いや、みるからに。グラスワインのお替りを頼みたいところを、グッと押え。それでも、満足。今度は、夜に来てみよう。

  • Bacari da Porta Portese 東京都渋谷区宇田川町36−6 ワールド宇田川ビル2F(電話:3462-2277) 12:00〜14:30/18:00〜22:00 日曜&第2・4月曜休み